「君へのプレゼントだよ」と言われて脚本をもらうのが嬉しかった
宮本信子さんは当時のプロデューサーを務めた伊丹プロダクション玉置泰代表取締役会長とともに、地元台湾のメディア約20社が集まった記者会見や上映会後の特別Q&Aセッションにも参加し、数多くの質問を受けながら、思い出話にも花を咲かせました。
「伊丹さんが映画を作る前は、いつも互いに俳優として『良い作品に出演したい』と思っていました。ところが、ぜんぜんその機会が来ないものですから、実は不満を抱えていたんですよ。そんなある日、私の父が突然亡くなって、お葬式があり。伊丹さんにとってその時の様子はとてもユニークに映ったようなんです。火葬場の煙を見ながら、『これは映画になるよ。小津(安二郎)さんの映画のシーンのようだよね』って言っていて。そこから全てが始まりました。玉置さんとの出会いもあって、そこから10作も作ることができたんだと思います」。
まさにこれが『お葬式』の原点となる話。通夜から火葬まで3日間の出来事を様々なエピソードを盛り込んで描くヒューマン・コメディが作られたのです。宮本さんは明るく苦労話も披露します。
「でも、お金の工面は大変。まず伊丹さんが脚本を書き上げて、映画の興行会社に持ち込むも『こんなタイトルじゃダメですよ。縁起が悪い』って言われてしまう。だから、なるべくお金をかけずに自分たちで作ることにしたんです。子どもも私も、そして猫も使って。食器なんかも全て家にあるものを使ったりしてね」。
当時、伊丹十三監督は51歳、宮本信子さんは39歳。勝負に出る夫に対して、反対はしなかったのか。そんなことも聞くと、「やるしかないと思い、それだけです」と、きっぱり。「作るって言われたから、わかりましたって答えました。不安は何もなかったですよ」と、潔い答えでした。
仕事のパートナーとして、夫として伊丹十三監督に信頼を寄せていたことがわかるエピソードも続けます。
「伊丹さんが台本を書いている時は邪魔しちゃいけないと思って、妻として見ているだけ。書き終わると、『君へのプレゼントだよ』って言ってもらいながら脚本をもらうのが、嬉しい喜びでした。何より伊丹さんが描くヒロインは男性とも闘い合って一生懸命生きていくような、勇気のある女性像ばかり。当時、日本のヒロイン像はとても古風でしたから余計に私は女優としてなんて幸せなんだろうと今でも思っています。
主人公を演じるなかで一番やりにくかった役と言えば、自分がモデルの(『お葬式』の)雨宮千鶴子でしょうかね。想像を働かせることが難しく、自信がなく緊張していたので、伊丹さんはあるシーンを前倒しで撮ってくれたんです。それが日本舞踊を踊りながら『東京だョおっ母さん』を歌うシーンでした」。
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