平穏な日常に潜んでいる、ちょっとだけ「怖い話」。
お隣のあの人の独白に、そっと耳を傾けてみましょう……。
第5話 結婚するはずだった男
「それにしてもこんな偶然あるんだな。昔の彼女がさ、患者として来院、ドクターとして再会するなんて」
スペインバルでカウンターの隣に座る拓人は、屈託のない笑顔で笑った。昔は全身を癖のあるハイブランドで固めているような男だったが、今日はシンプルなシャツに黒いジャケットを羽織っている。大人の洗練、というよりも随分所帯じみたものだ、と思う。この店も活気はあるが、会員制のバーなどに喜んで通っていた昔の彼からすると意外な選択だった。
無理もない。彼はもはや立派な夫であり、父親なのだから。
「それにしても、彩未は相変わらずキレイだなあ。ちぇ、惜しいことしちゃったよ」
「そんなこと。適齢期で結婚願望の強かった私を捨てて、結婚したのは拓人……さんじゃない」
5歳年上なので、彼は42歳のはずだったが、どう見ても30代半ば。美容皮膚科医らしく肌は不自然なほどに白く、艶がある。整えすぎた眉毛も、指先も、細身の体も、今はもう私の趣味じゃない。
それでも昔は、誰かに渡すならば死んだ方がましだと思うほど、好きだった。
当時、彼がほかに遊んでいる女性が何人もいるのは察していた。しかし30歳の平凡な女が、大学病院に勤める彼との結婚を夢見るなというほうが難しい。私はあらゆる知恵と駆け引きを尽くして、どうにか彼から結婚をほのめかされるまでになっていた。
それなのにいともあっさりと電話1本で捨てられ、着信拒否までされたことを、まだどこかで引きずっている。お互いに結婚した今、認めたくはないけれど。
だからこそ、この「偶然」を、どのように扱うべきか、私はまだ決めかねていた。
再会した元恋人同士。彼女は、彼が去った理由を今こそ確かめようとするが……?
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