年代によって人は価値観のブラッシュアップができなくなる
「女性がたくさん入っている理事会は時間がかかります」
これは森喜朗元首相が日本オリンピック委員会の会議で口にした女性蔑視発言で、この発言が原因となって森氏は東京五輪組織委員会会長の座を去ることとなったが、この発言を報道で目にした瞬間、「あ、これこそ父が言いかねなかった発言だ」と思った。
日本がジェンダーギャップ指数で主要先進国最下位レベルから抜け出せず、男女不平等へのカウンターが吹き荒れるこの時流の中、どうしてその発言がNGだってことがわからないのか。いまだ政策決定の場に携わる人の数ですら不平等を解消できていない状況で「女は議論に加わるな」と言わんばかりの蔑視ど真ん中発言を、どうして平然と口にできるのか。
まずは呆れと怒りで目の前が白くなるようなショックを受けた。が、しばし気持ちが落ち着くのを待ってから問題発言の前後を動画で確認すると、森氏は評議会の議論に入るにあたって、場を和ませるための「サービストーク」としてこの問題発言をさらっと口にしていた。
1970年代生まれの僕が感じたのは、「あ、これは今では絶対許されないけれど、ほんの十数年前なら全く問題にならなかったやつだ」ということだ。
いや、もちろん昔から許されてはいなかったのだけど、「当時の社会通念上」(嫌な言葉ではあるが)、それはサービストークとしてまかり通っていた言い回しだった。
叔父がヒアリング中にこぼしたひとことが刺さった。
「あのなあ、大ちゃん。世代と年代は、切り分けて考えてくれないか」
これは、三国人という言葉の捉え方や、パン・アジア主義をベースにした嫌韓嫌中感情のように世代ごとに一定の価値観があるのとは別に、「年代によって人は価値観のブラッシュアップができなくなる」ことについてのひとことだった。
父世代の「古いフェミニズム」の呪縛
「難しい文章がどんどん読みにくくなる。新しい考えがなかなか頭に入ってこなくなる。世の中はどんどん変わっていく。老いるということは、新しい情報を得て理解して取り入れる機能そのものが低下すること。それが 70代なんだ」
そう叔父は言った。それが、世代とは別の「年代」という問題であり、その二つは切り分けて問題を精査してほしいと叔父は言うのだ。
叔父は長年子どもに携わる仕事の中で柔軟な価値観を維持し続けてきた人物だ。本の虫であり、父同様にジャンルを問わずにあらゆる書物に手を伸ばす人でもあった。その叔父の口から、「難しい文章」だとか「新しいことが頭に入らない」などという言葉が出るとは思いもしなかったし、それに続いて出た「わかってくれよ」という言葉に「懇願」の色が滲んでいたことが、深く深く印象に残った。
なるほど、それが年代の問題=「老いること」なのだろう。
森発言の背後にあったのも、やはりその「老い」なのは明白だと思う。
確かに僕には、批判を浴びて開き直る森氏の背後に、「うろたえるおじいちゃんの顔」が見えた。もちろん、森氏には過去のやらかしも散々あるし、その立場は「老いて価値観の刷新ができなかった」という言い訳が通用しないものだし、失言騒動を機会に価値観の刷新をする気があるか、開き直るかはまた別問題だ。けれどやはり、そこには「これが許されない理由がわからないんだよ」という戸惑いが感じ取れたのだ。
間違いない。父は、古いタイプのフェミニスト男だったが、老いの中で現代感覚を失ったにすぎない。それは「年代」によるもの。女性蔑視発言だけでなく、ジェンダー問題全般に無配慮な発言が多かったのも、これが原因だと推論していいと思う。
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