父がヘイトしたのは女性全体ではなく「声の大きな女性・やかましい女性」


では、切り分けたもう一方である「世代」についてはどうか。ここに注目することで立ち上がるのは、父や父たちの世代にとってのフェミニズム=「古いフェミニズム」が、実は彼らの呪縛になっているのでないかという視点だ。

これは、僕自身も昭和生まれでその空気の中で育ったから、ちょっとはわかる。古きフェミニスト男のフェミとは「男は逞しく強く、弱き女性を守る」という騎士道精神的なものに立脚していた。もちろんそれは、ある程度現代でも通用する感覚ではある。

なぜなら、平均的に、そして物理的に、身体能力(筋力)の面で女性は男性よりも「安全性の低い世界」で生きているから。当然、その安全性の確保が社会の最優先課題なのだが、それが現代に至ってなお未達である以上、様々な場面で女性の安全性を確保する義務を負うのが、相対的に見て安全な側にいる男性だからだ。

だが、この「弱き女性像」の拡大解釈こそが、父たち世代の呪縛だともいえる。

それは、筋力といった身体格差の面だけでなく、地位でも発言力でも暴力を伴わない論争力でも、「女は静かに慎ましくあれ」という呪いだ。もう、現代的には全然ダメなのだが、60年、70年とその文脈の中で生きてきて、晩年の10年ほどでそれが呪いだと気づいて「改宗」するのは、やはり相当に困難なのだろう。世代の問題と年代の問題がオーバーラップしているのが、父や森氏だったわけだ。

10年前なら許されたことが、今は許されない。そういうことが一気に増えてきたにもかかわらず、ジェンダー的な価値観の刷新が非常に難しい背後には、この「男たるもの・女たるもの」の呪縛が確実にある。

これが答えだろう。父がヘイトしたのは女性全体ではなく、古きフェミ男子的に守る対象として認識しがたい「声の大きな女性・やかましい女性」だったのだ。だからこそ、「芯は強くとも出過ぎることのない、有能な女性」の登用には積極的だったのだろう。

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写真: Shutterstock

古い記憶をよみがえらせれば、故土井たか子氏に対して「マドンナって顔じゃないよ」 みたいな、フェミ的にもルッキズム(外見で人に価値づけをすること)的にも完全アウトな発言もあった。優に20年以上昔の記憶、それこそ、父が職場で女性総合職を積極登用していたと思われる時期の発言だ。父はその頃から一貫して、現代基準で言えば女性蔑視だったし、当時基準ではフェミ男子だったのだと思う。

 

改めて、父が毒を吐いていたのは「父の中で容認しがたい女性像」に対してだけだった。だから父は女性蔑視と感じられる発言をしながらも、保守的論題である伝統的家族観への回帰といった文脈での発言はしなかった。道徳教育等について少々保守系メディアから借りてきたような発言があったのもまた、それこそコンテンツの中に父自身の価値観と共通する言説が部分的にあったのだろう。教育基本法界隈と憲法24条改憲界隈の論題は混同しがちだが、やはりジェンダー的に無配慮な発言などにおいても、父がネット右翼的に一色に染まった価値観から発言したわけではないことが見えてきた。

最後に姉からは、父の性的マイノリティに対する無配慮な発言には、価値観のブラッシュアップが難しくなっていたことに加えて、「世間で騒がれている流行りごとが嫌い」という父のパーソナリティも関係あるのではないかという指摘があった。なるほど、確かにそれは父らしい。フェミもLGBTQも全く「流行りごと」ではなく時代の重要課題なのだが、それを流行りごとと捉えてしまうというのは、これまた「年代の問題」だろう。

これであれば、やっと、やっとのこと、腑に落ちた実感がある。

 

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『ネット右翼になった父』
(講談社現代新書)
鈴木大介:著

ヘイトスラングを口にする父、テレビの報道番組に毒づき続ける父、右傾したYouTubeチャンネルを垂れ流す父……老いて右傾化した父と、子どもたちの分断「現代の家族病」に融和の道はあるか? ルポライターの長男が挑んだ、家族再生の道程!
 


構成/露木桃子
 

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