書いて食べる人間が、自ら世に出した文章の誤りを認めることのしんどさ
青山:本の冒頭にも掲載された「デイリー新潮」の記事(2019年配信)は、(父をネット右翼にした)犯人は誰だ? 悪者は誰だ? 昔話の「悪い鬼」と「可哀想な子ども」みたいな、わかりやすい設定を感じました。でも今回の本では、大介さんが「その設定は間違えでは?」と検証していきますよね。書いて食べている人間が、他でもない自分が世に出した論考コラムの誤りを問いただすって、相当に覚悟が要るし、自分のためではできないくらい難しいように思います。だから、もちろんお父様のためでもあるでしょうけど、むしろ今を生きている、遺された家族、お母様やお姉様のために、この本が書かれたのかもしれないと感じて。
鈴木:多分、自分の父親じゃなかったここまで突っ込めなかった。それよりも「自分の過ちを認める」っていう部分ですね。現代新書の編集長に「ミステリー仕立て、謎解きもののように書いてほしい」と言われたんですけど、僕は当初は敵叩きの話をしたかったので、正直「そんなの無理だろ、何を言っているのかわからない」と。結果的にミステリー仕立てになった、そうならざるを得なかったのは、「やっぱりどうも違う」。どんなに答えを見つけたつもりになっても、やっぱり何か腑に落ちなくて。家族でなかったら、腑に落ちないままで終わってたと思います。自分の中に間違いがあって、最後にそれを正さなければいけなかったのは、父に対してとんでもない汚名を着せたから。自分の過ちを認める、そこが一番キツかった。つらかったけど……でもその先に進めたし、そこまで突き詰められたのも、やっぱり父の本だったからだと思います。
母のため、姉のため、というのは後から回収していった感じです。母自身はすごく自由な思想の持ち主だけど、かなり旧弊的なジェンダーロールに囚われている部分もあって。自分の夫を「綺麗な人物像」として作り上げ「つつがない人物がつつがない人生を送り、見事大往生しました」と対外的にお伝えし綺麗に送り出す、「妻としてのロールモデル」を母は持っていたんです。そうやって送り出した夫について「実はネット右翼でした!」と息子が書いて、やっぱり母としては「私、せっかくお父さんのことを聖人君子として送り出したのに。私が終えた“妻の仕事”をもう1回蒸し返されるの?」と、母自身も目を閉じていた部分をもう1回開かなければいけなくなり、それがすごくつらかったみたいで。
原稿のゲラ(校正刷り)を家族内で調整する中で、父が僕に手を挙げていたことを「暴力」という言葉で表現してほしくない、と母はすごく思っていて。でも一方で姉にとっては、それは間違いなく面前で行われていた暴力で、僕よりもはるかにキツい記憶として残っている。そういった家族間の認識のズレも、原稿の中で調整しないといけなくて。姉自身、家族の中で居場所がずっとなくて、我が家を「機能不全家庭」と捉えていた。けど母が一番使われたくない言葉もやっぱり「機能不全家庭」。そんな姉と母の葛藤も、ちゃんと落とし込まなきゃいけない。そういったプロセスも、家族の中だからやれたんだと思います。
父の差別的な発言も、全くの他人だったらここまで「許せない」と僕は思ってなかったかもしれない。家族だから最も許せないし、でも家族だから最も寛容にも捉えられる。「許す」という気持ちも、「許せない」という気持ちも、どちらもすごく大きく立ち上がってくるのが家族なんじゃないかな。「差別的な発言やヘイトスラングを口にしている時点で、その人を許す必要はないんじゃないか」という声もありますが、確かに父がヘイトスラングを使ったことは、それで傷つく人に対しての免罪はできない。けど、息子だからこそ、あくまで僕の中では父を免罪することができましたし、父の人物像を寛容に捉え直すことができたと思うんです。
これは希望的観測ですが……ネット右翼化してしまった友人がいるんですが、彼らもそうした言葉を使うには、父と同様に、それなりの理由と正義があるんだろうと。であれば父に対して寛容になれたように、彼らに対しても、許しがたい発言の背後にそいつの持つ元々の「良い奴」っていう像を捉え直し、寛容になることで、また交流ができるんじゃないか? って思えるようになりました。ゆみこさんのこの本に対する感想で、僕が一番ピリッと記憶に残っているのが「読みながら“大介、お前何してくれとんじゃい!”って思った」という、それについて聞きたいですね。
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