「家族」という関係から逃れられないなら、「黙る」ことを選んでしまうことも
青山:失礼ですよね、すみません(苦笑)。この本には、「言葉の強さ」や「声の大きさ」について、いろんな意味でとことん考えさせられたんです。お父様が亡くなった直後、まだ大介さんも混乱しているであろう中で「一つの解」を書いた。しかもかなりセンセーショナルで、一種誹謗に近い部分もあった。親であっても、家族であっても「この人はこうであった」と強く決めつけることは、やっちゃいけないんじゃないか、って胸がぞわぞわしちゃって。これは同じく家族について書いている私自身への「だめじゃん」という反応でもあったんですよ。誰かを一方的に攻撃する言葉って聞くだけでしんどい。それが一番身近な家族が他の家族を責める言葉なら、もうとてつもなくしんどい。お父様を批判する文章を読んだ大介さん以外のご家族は、どう感じるだろう。つらいだろうなと、勝手に書かれた家族の側の気持ちになって、“何してくれとんじゃい!”と。
でも、大介さん自身がそのことにすごく悩まれて、今回の本はむしろそこから始まる。で、「一つの解」ではない、色々な答えを見つけに行かれますよね。たくさんの人の話を聞きながら検証して、自分の気持ちや感情だけでない部分で捉え直していく。その執念のような取材のプロセスに、「鈴木大介はやっぱさすがやな!」と圧倒されました。
私は「娘」という存在として、「女の自分が我慢しておけば、なんとなく『家族』というものが回るのかもしれない」とやり過ごしてきた覚えがあります。おかしいと感じて抗いたくても、家族という関係から逃れられないなら、黙ることを選んでしまう。諦めみたいなこと。大介さんもお父様の差別的な発言に対して黙っていた、と書かれていましたけど、そこはすごく気持ちがわかる気がしました。家族を傷つけたくないから黙る。
私ね、鈴木家でそうやって一番黙ってきたのが、お母様なんじゃないかって思ったんです。自分の選んだパートナーと息子が、親子なのにどんどん離れていく。単に子どもが自立して親に反抗するってことを超えて、息子が夫を人間として否定する。どちらが正しいとか間違ってるという話ではなくて、息子も、息子の親である夫のことも大事だから、関係性の中でどうしようもなく逃げられない。そんな人であるお母様がいたからこそ、大介さんとお父様が、死後とはいえ、こうやって繋がっているとも言えますよね。
ある人の理解しがたい部分について保留にせざるを得ない。家族として生活するって、そんな苦しいところがあるように思うんです。大介さんが言語化することで、初めて声として出たことも多いだろうし、救いでもある。一方で、あえて胸の奥にしまって家族をやってきた人にとっては、誰かの強い声で強制的になにかを突然引きずりだされたら、引き裂かれるような気持ちになるんじゃないか……。自分も言葉を使う生業だから、家族といえども、そこにいない誰かについて語るときの、難しさや怖さのようなものを考えさせられます。
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