世界経済の先行きが不透明で変化の激しい時代にこそ知っておきたいのが、「ネガティヴ・ケイパビリティ」という能力です。「ネガティヴ・ケイパビリティ」とは、謎や不可解な物事、問題に直面したときに、簡単に解決したり安易に納得したりしない能力のことです。

哲学者の谷川嘉浩さん、朱喜哲さん、公共政策学者の杉谷和哉さん3人の対話形式の『ネガティヴ・ケイパビリティで生きる ―答えを急がず立ち止まる力』より、この概念を理解するポイントとなる部分を抜粋してご紹介します。

まずは、谷川嘉浩さんによる「ネガティヴ・ケイパビリティ」とはどのような能力なのかという説明部分をお届けします。
 

「ネガティヴ・ケイパビリティ」とは?

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ネガティヴ・ケイパビリティという言葉を作った詩人であるジョン・キーツの説明を借りましょう。キーツによると、ネガティヴ・ケイパビリティとは、「事実や理由に決して拙速に手を伸ばさず、不確実さ、謎、疑いの中にいることができるとき」に見出せる能力です。

 

「拙速に」と訳した“irritable”は、関西弁風に言えば「いらち」のことだと考えればいいと思います。素早く選択肢や判断に飛びつくような、我慢のない短気な状態を指す方言です。曖昧で見通しがたく、しかし説明を要するような謎を前にしたとき、「事実や理由に〝いらち〟になって手を伸ばす」感覚には誰しも心当たりがあるはずです。

わかりにくい説明とわかりやすい説明なら、あるいは、前提知識のいる学習と前提知識のいらない学習なら、多くの人は後者を好むでしょう。誰もが「いらち」のように振る舞わざるをえない社会にあって、ネガティヴ・ケイパビリティは素直に望みがたい能力になっているようです。

しかし、取り組むべき問題や謎が複雑かつ巨大であればあるほど、即断即決せずに物事をどこまでも探索的に知覚しながら、その核心にあるものを自分なりに見定めようとする、曖昧で不確実な時間を過ごすことが大切になってくるのではないでしょうか。

ネガティヴ・ケイパビリティは、みんなが同じ方へとずんずん歩いていく中で、それとは別の道のことを考えることです。話が付いたはずのことから、わざわざ疑問や問いを読み取り続けようとすることです。自分が得ていたはずの「正解」を喜んで手放すことです。

立ち止まるべきタイミングで動いたり、動くべきタイミングで立ち止まったりすることです。すらすら話すことが期待されるときに、「でも⋯⋯」と口ごもることです。世間的には結論扱いされている議論の先を考えることです。つまりは、ああでもなければこうでもないと探索的に思考することです。

社会がこればかりでは困ってしまいますが、それでも、こういう立ち回りを許容する場所が乏しいと、社会の側も軋みをあげることになるのではないでしょうか。

「無駄」に思えるものが次々と失われた社会では、その分選択肢を想像する余地がなくなるので、社会が提示できる行為や想像、言葉のレパートリーがやせ細っていくのではないかと思うのです。

逆に言えば、こういう「よどみ」が増えれば、漠然と生きづらさを感じている人がほんの少し息をつきやすくなったり、落ち着きなく過ごしていた人が問題の核心をじっくり見定めるだけの余裕を持つことができたりするかもしれません。