私が母を最優先にしなかったのは、そうすると母が悲しむと知っていたからです。母はずっと私を応援してくれていました。自分の介護のために私が犠牲になることなんて、望んではいなかったはずです。

私には弟もひとりいて、関係はいいのですが、母の介護は私の責任において、私がやりたいと思っていました。母を一番理解しているのは私だからです。介護は、やりたくて、かつ、やれる人がやるべきであって、そうでない人が無理をすべきではありません。

そういえば、私がフリーランスで、時間の融通が利くのは幸運でしたね。母といられる時間がたくさんあったから。幸福な介護だと思いますよ。
 

3人で大阪で暮らす

20代から認知症の母を“背負ってきた”娘が断言する「介護してきて、本当によかった」_img4
 

2019年のことです。私はなかなか結婚相手がみつからないことに焦りつつ、母と神奈川県で、それなりに充実した毎日を送っていました。

 

ある日、大阪のある団体から介護についての講演依頼が舞い込みました。無事に講演を終えて東京に戻ったところ、見覚えのある名前の人からメールが届いているではありませんか。

読むと、中学校の同級生でした。「今日は講演をありがとう。実は、まりさんを講師に推薦したのは僕だったんです」といった内容でした。

びっくりです。というのも、その彼は私の初恋相手で、中学校時代、一瞬だけかわいいお付き合いをしたこともあったからです。なんで現地で声をかけてくれないのと文句を言いましたが、恥ずかしかったんでしょうか、タイミングがなかったとのことでした。

元カレと呼べるかどうかも微妙な彼でしたが、翌月に東京で会おうということになり久々に再会すると、「中学校以来ずっと好きだった。付き合ってほしい」と、いきなり告白です。

シャイなのか積極的なのかよくわからないヤツだなと思いつつ、私が出した答えは「今さら遠距離恋愛をやる余裕はないので付き合えない。だが、結婚なら考えてもいい」というものでした。

答えは早かったですね。その場で「じゃあ結婚しよう」と即決した彼は、翌月にはさっそく婚約指輪をプレゼントしてくれて、結婚して大阪で3人で暮らしたいと言うではありませんか。つまり、私の母も一緒です。

というわけで、私たちは結婚することになりました。

介護への理解もあり、不思議な積極性もあるいい夫なのですが、結婚に際してひとつだけ悲しかったことがあります。それは、長く住んだ神奈川の街を離れること。

18歳で上京してから長く住んだ街だったのですが、母の介護が始まってからは近所の住民の方が「がんばってね」と声をかけてくれることも多くなり、一歩外に出ると知り合いに会う心強い環境でした。

そんな街を離れるのが寂しくないわけがないですよね。ちょっとしたマリッジブルーでした。