この事態を見るにつけ、私にはひとつの危機感と、ひとつの疑問を覚えます。
危機感は「好き勝手に●●をしたお前の自己責任」という理屈が、外の世界や新たな体験への好奇心を萎えさせること。

 

今の日本はあまりに内向きで、外の世界のことに無関心で「うちの村は最高の村だ」と村人だけで悦に入ってる感じがします。少し前に「どこの国でも信頼される日本のパスポートは最高」という新手の日本賛美がネット上で広がっていましたが、パスポートが外国でいくら信頼されていても、当の日本がそのパスポートを使った日本人を「好き勝手に海外に出た人」として扱い、まさかの事態に対応するつもりがないなら、その「信頼」に何の意味があるのか、私にはさっぱりわかりません(よく考えたらこの構造は、海外に援助しまくっていい顔して、国民からは搾り取るだけ搾り取る岸田政権とそっくりです)。

今回の件でも、日韓もしくは日米の対応の違いを知る機会ーー報道されないから知らない、外の世界で起きていることに関心がない人は、どこまでいっても「民主主義的な先進国なら、当然あってしかるべき自国民保護」を知ることはありません。「お上が決めたこと=正しいこと」「お上がやってくれる気がないこと=自己責任」という思考に停止したまま、「なにか間違ってるんじゃないか」と考えるきっかけさえ持つことができません。

さて疑問はといえば、こういう状況で個人に投げつけられる「想定できたはず」という言葉を、人々はなんで政権に向けないのか、下手すりゃ「まあこうなるとは思わないもんね」と逃げ道を与え許してしまうのか、ということです。

地震が多い国の津波が起きやすい地域に原発を立てることの危険性、将来の極端な少子化と労働力不足、異次元の金融緩和の行き着く先。どれもこれも当事者や専門家の言葉を真摯に聞きさえすれば想定できること、そうやって想定してしかるべきことを、日本の政権や閣僚は「想定外だった」とか「想定の話はできない」とか言い逃ればっかりしています。
マイナンバーカードの入力ミスもそうです。担当大臣は「人為的ミスであってシステムの問題じゃない」とか、昭和の時代から来た人みたいなレベルのこと言ってますが、そもそも人為的ミスがきわめて起こりやすい建付けのシステムを「問題がある」と思わないことがダメだって話で。
「当人でない担当者が、一件一件アナログで入力する」「一件入力するたびに毎回ログアウトする」とか、なんらかのシステムを仕事で使っている人ならば、少し考えれば「そりゃ人為的ミスがバンバン起こるだろ」とわかるはず。

酒屋でワインを買ったとして、家で封を開けると瓶が割れていたとしたら。
私のように荷物をぶんぶん振り回してしまうタイプは「やってもうた……」とは思うものの、プチプチとか、発泡スチロールのあみあみしたやつとか、紙のビロビロっと広がるやつとかのような緩衝材が全然やってくれなかった包装を見て、「あっちの店は、瓶が割れないようにプチプチを巻いてくれる……」とも思うと思います。

そしておそらく、次はその店で買いません。私のような荒くれではなく「慎重に持って帰ってきたのに」という人なら、もしかしたら最初からヒビが入っていたのかもしれません。「プチプチとヒビの可能性」でクレーム入れて、相手が「瓶に問題はなかったし、途中で割れるのは想定外」と言われたとしたら、やっぱりこの店には二度と行かないでしょう。

でも今の日本では、多くの人が「瓶のヒビ」をろくにチェックもせず、持ち帰る途中で割れないようプチプチをつける気遣いもできない店を「まあそんなこと想定できないよね」と受け入れる人々に、「持ち帰り途中で瓶が割れることを想定しないお前が悪い」と言われる状況です。

もしかして、地方の小さな自治体では、ずーっとその店しかなかったから「ダメな店だけど、この店以外にないし……」って状況なのかもしれません。いやありますって、もっとマシなほかの店。ためしに他で買ってみません?