こんにちは、エディターの昼田です。
先日の打ち合わせで、相手が、
「昼田さんのようにスタイルのある人になるためには……」と口にしたとき、え!? ってびっくりしました。私がスタイルのある人!? 耳を疑いましたよ。
なんてこったい。
冷静に考えたらこの得体の知れない「スタイルのある人」なるものを、私自身ずっと追い求めてきました。どうしたらスタイルのある人になれるんだろう? こんなに一生懸命に洋服を選んでいるのに、どこを探しても見つからない。
ついには当時携わっていた雑誌の企画会議で「シンプルなのにスタイルのある人」とか、「〇〇さんスタイルを学ぶ! 」みたいな企画案を出して、いち早く辿り着こうとした。断捨離前の私にとって、おしゃれのゴールは「自分のスタイルを見つけること」でした。
それが、断捨離したら「スタイルのある人」なんて言葉、見向きもしなくなってた! なんだっけ、その概念は!? 他人に言われて、私の辞書から言葉そのものが消え去っていたことに気がつきました。私、洋服と一緒に「スタイルのある人」を手放したのだ。
そうしたら、スタイルのある人になってしまったとは! びっくり。
あの頃、私の思っていた“スタイルのある人”とは、たとえば、ジェーン・バーキン。
このシンプルさでこの存在感が出せるとは、すごいなぁって。それから海外のエディターやスタイリスト、人気ブロガーなど。レアンドラ・メディーンもよくチェックしていたなぁ。
今ならあの時の自分にツッコミを入れたくなります。
なんでそんなにスタイルが欲しいの?
スタイルのある人になれたらどんないいことがあるわけ?
結局のところ、おしゃれな人と言われたかったわけですよ。「あの人すごいね、素敵よね」って言われたかった。一目置かれたかった。手に入れたかったのは、他人からの評価。「あなたは価値がある」と誰かに認めてもらいたかったのです。
昔の私は「劣等感の塊」でした。育った環境のせいか、常に自分は欠けているという意識がありました。成績表に10が並んでいても、「もっと自分の意見を伝えられる人になりましょう」という先生のコメントにひどく落ちこんで、親に見せられませんでした。もっともっと頑張らなければ。平均点以上じゃダメ、満点以外は価値がない。
社会人になって使えるお金が増えると、私の足りない何かを”外側にある何か”で埋めることに一生懸命でした。いいレストランに行き、流行りのものに手を出し、仕事でイヤなことがあったときほど買い物に走った。素敵なブランドの洋服を身につければ私はイケている、つまり価値のある私になれた気がした。新しい洋服は、新しい自分になったような高揚感をもたらしてくれた。劇薬の効果は長く続かず、何かの拍子に”情けない自分”が露呈するとまた洋服が欲しくなった。いつの間にかクローゼットから服が溢れ、洋服が持つ中毒性から抜け出せなくなっていました。
だって、私は洋服が好きなんだから。
買ったっていいじゃん。
「好き」が邪魔して、本当の自分の姿を見ることから逃げていたんだと思います。「好き」で「仕事」でもあるファッションを私からとってしまったら、何も残らないじゃないか。私は買わずにはいられなかった。精神的には追い詰められていて苦しくて。何かが違う、でも何をどうしたらいいか分からない。断捨離前の数年間は、出口の見えないトンネルにずっといました。
だから今となっては思うんです。断捨離は、神様がくれたプレゼントだったなと。そろそろ気がつきなさい、もっと本当の自分を見なさいよっていう導きだったんだなと思います。
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