主役じゃなくても
久美から大ヒットミュージカルの切符が送られてきたのはその翌週だった。海外で観たことがある一番好きな演目で、行ってみたい気持ちが湧く。高額な席だったけれど、コネで貰ったから、行けなかったら捨ててと言われて気持ちが動いた。
2日後の雨の日、私は劇場で久美と落ち合った。ずうっと会っていなかったのに、1週間と空けずに約束するなんて不思議な感じ。でもしっくりくるのが、学生時代の仲間の良いところ。
「萌絵! 急に誘ってごめん! 来てくれて嬉しい」
久美は終始ニコニコしていた。
ロビーでシャンパンを1杯飲んでから、開演間際、席に着いた。購入したパンフレットを見ていると、隣の久美がキャストのページを開いて一番左上の女優の写真を指さした。
「覚えてる? 北 花音ちゃん。2年後輩のソプラノで全国いくときソロとった子。今日の舞台のヒロインなの。このチケットも融通してくれたのは彼女。萌絵のことよく覚えてて、来るって言ったらすごく喜んでた」
途端に、周囲の酸素が薄くなったような気がした。席を立とうかと迷ったが、中央の席なので周囲に迷惑をかけてしまう。照明が落ちたのをいいことに、私は思い切り顔を伏せて自分の手元に集中しようとする。
かつての仲間が、舞台で歌っているのを、私は聴くことができない。たとえどんなに小さな舞台でも。歌声を聞くと動悸がして、過呼吸のような症状が出る。卒業してから部活仲間の舞台を見に行って倒れるということが3回続いて、自覚した。
かつて同じ場所にいた仲間に、「歌を歌う」という幸福を見せつけられると、どうしていいのかわからなくなる。
オーケストラのオバーチュアが流れはじめた。冷や汗がにじむ。
それは私が渇望していた未来だったから。羨ましくて気が狂いそうになって、息がつまる。自分は挑戦さえしなかったのに。どうせプロにはなれないとうそぶいて、音大にも行かなかった。自分の才能を磨いて、勝負するのが恐ろしかっただけ。歌うと逃げたことを思い出すから、歌自体を封印した。
そのくせ思い入れがありすぎて、うまくかつての仲間と付き合うこともできない。歌からも仲間からも目を背け続けた20年。
まさか「挑戦しなかったこと」がこれほど人生を縛るなんて。
きつく目を閉じていると、暗闇の中、不意に隣からひんやりとした手が伸びてきて私の腕に優しく触れた。
――だいじょうぶ、大丈夫。
合唱コンクールで、あがり症の私はよく震えていた。その時、久美はいつもこんなふうに励ましてくれたことを思い出す。
どこからか、細く柔らかい、でも真っすぐに響く声が降ってきた。記憶の中の仲間の顔とその歌声がまっすぐに結びつく。忘れてない。あの頃一緒に歌った仲間の声は、全部覚えている。
顔を上げると、そこには背筋を伸ばして歌うヒロインのひたむきな姿があった。
私の卑屈な物思いを打ち砕くほどに、ただ音楽がそこにあふれていた。歌う喜び。自分のたった一度の人生を生きるということ。私が捨てたもの。
「主役じゃないと歌っちゃいけないなんて、誰が決めたの?」
久美が囁く。
20年、ちっぽけなプライドと後悔に縛られていた。それを知ってて、迎えにきてくれたんだね……。
涙がとめどなくあふれる。私は、高校生の頃のように、無心に歌声を味わった。
マンションの建替えで、2億円以上の部屋に住むことになった彼女は……?
夏の夜、怖いシーンを覗いてみましょう…。
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構成/山本理沙
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