一瞬だけ人と人の間にかかる橋は、幻なのか
二の腕を揉むのはセクハラだし、全てを女のせいにする発想にはうんざりです。笑って受け流すなんてまっぴらごめん。だけど、目の前の人は少なくとも今この瞬間は私のことを好もしく思っている。例え先方の一方的な思い込みであっても、こちらに向かって窓が開いている。その好機を捉えて、うんと考えや習慣の違う人との間に、一瞬だけでも橋をかけることはできないだろうか。理屈ではなくつながる回路の価値を自分はこれまで過小評価してきたのではないかと、ふと思ったのでした。
という話を友人にしたら「おお、あなたはその川を渡って、あちら側に行ってしまうのか」と心配されました。彼岸へ……義理人情と内輪のルールで回す旧世界へと、取り込まれてしまうのかと。そして若い友人はこう言いました。「私はその古い価値観を変えようとしない人たちに、エナジーを費やす気にはなれない」と。確かにそうです。私だって底抜けのお人好しではないので、ハラスメントや女性蔑視に無頓着な人に出会ったときなどに、言っても無駄だなと離れることは多々あります。二の腕を揉もうとする男性はきっと、あと一歩でも私が先方の領域に踏み込んだらこちらに対して高圧的な態度になるだろうし、女の心がけを責める女性は、こちらが身内になった途端に厳しく当たるだろうことも明らかです。でもだからこそ、よそ者との間に束の間成り立つ親しい交流を、有効活用できないか。
いえもうちょっと正直に言いましょう。私は二の腕を揉もうとするおっさんを、その瞬間にはさほど嫌と思わなかったのです(決して揉まれたくはなかったが)。全てを若い母親たちのせいにする年配女性に、彼女がしてきた苦労の話を尋ねたいと思ったのです。これを彼らにまんまと取り込まれていたと見ることもできるでしょう。でも、私は人と人の間に虹のように現れては消えてしまう一瞬のつながりを、決して単なる錯覚だとは思いません。ほんの少しでも、知ることは無駄ではないんじゃないかと。
そう考えるようになったのには、友達というものの概念が大きく変わった「ヤギの彼」との交流が影響しています。
Comment