研究室を出禁になった一因は富太郎にもあった!?
「小学校中退」の学歴しかない富太郎の情熱と才能を認め、自身の研究室への出入りを認めた矢田部教授は、後年、手のひらを返したように富太郎の出入りを禁じてしまいます。そこにはどのような心境の変化があったのでしょう? 光川さんは本書でこのように記しています。
「彼(矢田部教授)は(富太郎が)大学の研究室を私物化して散らかす上、学問業績まであげ始めてくるとうっとうしい邪魔な存在だと感じ始めたようでした」
どうやら「出入り禁止」は、矢田部教授の一方的な嫉妬からではなく、富太郎の行動にも一因があったようですね。とはいえ、
「教授としての矢田部の性格にもいろいろ問題があったようで、のちに大学当局から教授職を罷免され、高等師範学校の校長に転職しています」
ともありますから、富太郎のほかにも矢田部教授の妨害行動を快く思わなかった人がいたのかもしれません。もちろん、誰よりも研究に情熱を注いでいた富太郎は、ここで泣き寝入りはしませんでした。
「後に昭和天皇に帝王学を教えることになる政治思想家の杉浦重剛や、東京帝国大学理科大学長を務めた菊池大麓に援護の論陣を頼むなど、はっきりと抵抗します。さらには以前から、富太郎が発見した新種の植物の学名を決めてもらうなど文通を通して私淑していたマキシモビッチというロシアの植物学者を頼って、留学する方法を思いつきます。しかし、残念ながら、マキシモビッチの突然の死によって留学の計画は頓挫してしまいます」
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