予兆ゼロから一転、不穏な発言


「夫と出逢ったのは、外資系の大手会計事務所。私はバックオフィスで、彼は税理士として勤務していました。部署は違いましたが社内の飲み会で知り合います。

その頃私は20代後半でしたが、社内の華やかでノリのいい雰囲気にいまひとつ馴染めなくて。でも結婚したい気持ちはあったので、彼氏が欲しい、でも社内で目立つ派手な人は無理……と勝手にぐるぐるしている時期でした」

のちの夫となる英太さんの第一印象は「真面目で、どこか憎めないタイプ」。たまたま近所に住んでいることがわかったので、評判のビストロで土曜にランチでも、という話になり、現れた英太さんはなんとも気の抜けたポロシャツにデニムにオシャレとは程遠いメガネ。会社帰りの飲み会で生真面目にスーツを着こなしていた姿とのギャップがツボだったと響子さん。

「今考えれば、私も単純で。同じ会社という安心感と、エリートで真面目でちょっとダサいなんて可愛いなって、恋に落ちるのはあっという間でした。

実際、第一印象はそんなに外れていなかったと思うんです。結婚してからもとっても平和でした」

ほかにも日常のやりとりを伺うと、とても良識のありそうなご夫婦というのが筆者の印象です。落ち着いていて、それでいて明るく懐の深そうな雰囲気の響子さん。パートナーに破天荒な人を選ぶイメージがありません。

「私たちは2人とも地方育ちで、東京に親戚はいません。職場に近いほうが便利だろうと、都心のマンションに住みました。周囲には教育熱心なご家庭も多かったですが、私たちは息子が産まれてからもどちらかというと『小さい頃はのんびりさせよう。時が来たら自分でやるよね』という雰囲気で、近所のサッカーとスイミングくらいでした。早期教育とは無縁の家。

だから予想もしていなかったんです。夫のスイッチが、ある日突然入ってしまうなんて……」 

きっかけは、有名進学塾が近所にできたこと。後から知ったことですが、その塾は群を抜いた進度の速さと管理型の勉強法で有名なところでした。何を思ったのか、英太さんがその塾の説明会に参加したのです。息子さんが小学校3年生のときでした。

「俺の会社では、出世しているそつのない奴は中学受験をしていることが多いんだ。どことなく洗練されているし、何か秘訣があるのかもしれない」

「座ると寝るから、立って勉強しろ」深夜23時、中学受験塾終了後の特訓。妻が知る、夫の狂気スイッチ_img0
 

パンフレットを並べて、そんなことを呟いていたという英太さん。その様子に、夫の社内での立ち位置を知っている響子さんの胸は痛んだと言います。不器用なところがある英太さんは、確かに努力をしているものの損をする場面がありました。

 

ここで英太さんの生い立ちについて、響子さんが説明してくださいます。英太さんは小さい頃に理由があって親と別れ、祖父母や親戚の家を転々として育てられたそう。昔から真面目な性格で、転校が続き、塾に行きたいとも言い出せない状況でもいい成績を納めたといいます。奨学金で公立大学に行き、アルバイトをしながら難関の税理士試験に合格。

つまり、逆境でもたゆまぬ努力で成果を出してきた男性でした。それでいて奢らず、どこか飄々とした雰囲気も漂わせているというのですから、尊敬できる方であるのは間違いありません。

しかし、もしかして英太さんご本人も予想外だったのかもしれませんが、初めて触れた特殊な「中学受験」の世界にハマってしまうまで、時間はかかりませんでした。