12月9日に還暦を迎えられる皇后雅子さま。雅子さまと天皇陛下の「馴れ初め」そして結婚に至るまでの道のりを2回にわたって振り返ります。

東宮御所で行われていた、スペイン国エレナ王女(当時)の歓迎レセプション。おおぜいの招待客で賑わうパーティの席上で、皇太子浩宮さま(今の天皇陛下)は一人の女性を見初められます。女性は若き外交官の卵、雅子さまでした。

1993年1月、東宮仮御所へ向かう雅子さま。キャメルのコートに身を包み、首元にはエレガントなエルメスの花柄スカーフを結んで華やかに。雅子さまの華麗な経歴とともに洗練された着こなしも話題に。その雅子さまスタイルや、スカーフの巻き方解説などの特集が、当時、雑誌でも多く取り上げられました。写真/上本正春

このとき皇太子浩宮さま26歳、雅子さま23歳。初々しいお二人は、その後、6年もの紆余曲折を経てご結婚されたのです。今回は、皇太子浩宮さまと雅子さまのロマンスを振り返ります。

ご成婚パレードの皇太子浩宮さまと雅子さま。写真/JMPA


浩宮さまにとって、雅子さまは「忘れられない人」に


美しい装いに身を包んだ若い女性たちが、華やかに笑いさざめいています。
パーティに招待されたのは、外務省関係者や学者などおよそ120人。その中で、ひときわ輝く女性がいました。彼女に気がついた瞬間、浩宮さまはその女性から目が離せなくなったのです――。
皇太子浩宮さまと雅子さまとの、初めての出会いでした。

雅子さま、ハーバード大学の卒業式にて。写真/宮内庁提供

その日、東宮御所ではスペイン国エレナ王女(当時)の歓迎レセプションが行われていました。エレナ王女は、上野の国立西洋博物館で開かれたエル・グレコ展のために来日していたのです。赤坂御用地内の馬場では、皇室伝統馬術の「打球」が披露され、場所を談話室に移してパーティが行われました。1986年10月18日のことでした。

120人の招待者のうち、20代のエレナ王女と同じ年ごろの女性たちが、40人ほど招かれていました。雅子さまは、ほんの数日前に外交官試験に合格したばかり。父の小和田恆(ひさし)さんが外務省の要職にあり、宮内庁から「父娘二代」の外交官として、とくにメンバーに加えられたのです。

外交官試験終了日に大学の同僚と打ち上げを。写真/宮内庁提供

「合格してよかったですね」

浩宮さまは、雅子さまと軽く挨拶を交わされたあとでお祝いの言葉をかけられました。初めて雅子さまと会われたときの印象を、浩宮さまは、のちに婚約記者会見でこう語られています。

「……非常に強いというか、いい印象を受けました。まず、非常に控えめですが、自分の思っていることをはっきりとおっしゃって、それでいて非常に聡明であること、それから、話題にも共通性があって、心が通じ合うというような感じを強く持ちました。したがって、話していて楽しい人というのが、まず最初の印象でした」

浩宮さまにとって、雅子さまは「忘れられない人」となったのです。

配属先の外務省北米第二課課内旅行で熱海へ。写真/宮内庁提供
 


「小和田さんでは、だめでしょうか」


その後、東宮御所や高円宮邸などで4回ほどお会いになったあと、翌年春に雅子さまは外務省にご入省されます。さらに1988年には外務省の在外研修生として、英国オックスフォード大学ベーリオールコレッジにご留学されてしまいます。

その間、何人ものお妃候補が取りざたされては、消えていきました。やがて天皇陛下になられる皇太子殿下のご結婚は、ご自分の一存ではできません。しかし、浩宮さまは諦めませんでした。

外務省職員としての出張先でハーバード大学時代の友人と再会。写真/宮内庁提供

「小和田さんでは、だめでしょうか」

浩宮さまは、幾度にもわたって宮内庁に申し入れをされて、まわりの人々からの了解と応援を得ていったのです。

やがて5年近くのときがたち、浩宮さまと雅子さまは久しぶりの再会をされることになるのです。

12月8日公開の後編に続きます。

1991年11月、竹下登元首相、ベイカー米国務長官(当時)との会談でそばに立ち、通訳の補佐をお務めになる雅子さま。写真:AP/アフロ

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参考文献/『新しい時代とともに ――天皇皇后両陛下の歩み』(宮内庁侍従職特別協力、毎日新聞社)、『美智子皇后「みのりの秋」』(渡辺みどり著、文春文庫)、『美智子皇后と雅子妃 新たなる旅立ち』(渡辺みどり著、講談社)、宮内庁ホームページ

キャプションは過去の資料をあたり、敬称・名称・地名・施設名・大会名・催し物名など、その当時のものを使用しています。
 

バナー写真/JMPA
構成・文/高木香織
編集/立原由華里


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