皇太子浩宮さま(今の天皇陛下)が雅子さまと運命的に出会われてから半年後、雅子さまは外務省にご入省されました。
翌年、雅子さまは英国にご留学され、お二人は会うことがかなわなくなってしまいます。月日は駆け足で進み、5年ぶりにお二人は再会。浩宮さまの全力投球のプロポーズ作戦が始まります。今回は、浩宮さまからのプロポーズに心揺れる雅子さまを見つめます。
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全力投球のプロポーズ
「小和田さんでは、だめでしょうか」
初めて雅子さまに会われてから、浩宮さまにとって雅子さまは心に決めた方となりました。そして浩宮さまは、宮内庁に対してたびたび理解を求めるべく申し入れられました。
やがて5年ほどののち、浩宮さまのお気持ちを汲んだ宮内庁が動き出します。
1992年8月16日、宮内庁からの依頼を受けた市ヶ谷の柳谷健介氏の自宅で、お二人は再会されました。当時、柳谷氏は国際協力事業団総裁であり、雅子さまが外務省に入省されたときの外務省事務次官だったのです。
柳谷氏の広いリビングでお会いになった浩宮さまと雅子さまは、お互いの留学先であるオックスフォード大学やスキーなどの共通の話題で話が弾み、時が経つのも忘れるほどだったといいます。
その2ヵ月後、秋の気配が感じられる10月3日に、2台の車が千葉県にある新浜(しんはま)鴨場に向かって走っていました。あずき色の軽ワゴン車の後部座席の窓はカーテンで隠されています。皇太子浩宮さまの乗られた車でした。
新浜鴨場は、約20万平方メートルもの広さを誇る野鳥の生息地です。海外からのお客さまの接待で使われることの多い場所でした。到着した軽ワゴン車から浩宮さまが降り立つと、そこには柳谷氏に付き添われた雅子さまがいらしたのです。
浩宮さまと雅子さまは、昼食をともにされたあと、水鳥の遊ぶ池の周りを散策したりして過ごされました。そのとき、浩宮さまが「私と結婚していただけますか」とプロポーズされたのです。
警備をつけずに雅子さまに会いに行くことに対して、浩宮さまはのちに記者会見で「雅子さんのことに関しては、本当に全力投球でと申しますか、一生をかけて、ほんとうに力を入れていた」と話されています。その言葉通り、浩宮さまは、毎晩のように雅子さまに電話をかけられるなどのアタックをされたのです。
自分自身も『いい人生だった』と振り返れるように
その中で、雅子さまの心を動かされたのは、浩宮さまからの、
「皇室に入られるには、いろいろな不安や心配がおありでしょうけれども、雅子さんのことは僕が一生、全力でお守りしますから」
という言葉だったといいます。
雅子さまの心は揺れました。外務省でやりがいのある仕事を任されている雅子さまは、その仕事をやめるべきかどうか悩まれたのです。新しい決心をするまでには、十分に考える時間が必要でした。
12月12日、浩宮さまと雅子さまは東宮御所でお会いになりました。そこで雅子さまは、こう問われました。
「ほんとうに私でよろしいのでしょうか」
「はい、そうです」
と、浩宮さま。雅子さまは心を決められました。
「私がもし殿下のお力になれるのであれば、慎んでお受けしたいと存じます。これまで殿下にはいろいろ大変幸せに思えること、うれしいと思えるようなことも言っていただきましたので、その殿下のお言葉を信じてこれから二人でやっていけたらと思います。お受けいたしますからには、殿下にお幸せになっていただけるように、そして、私自身も自分で『いい人生だった』と振り返れるような人生にできますように努力したいと思います。至らないところも多いと思いますが、どうぞよろしくお願いします」
雅子さまは、たくさんの浩宮さまの言葉を胸にご結婚されたのです。そして、その約束通り、浩宮さまは雅子さまを全力で守られているのです。
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参考文献/『新しい時代とともに ――天皇皇后両陛下の歩み』(宮内庁侍従職特別協力、毎日新聞社)、『美智子皇后「みのりの秋」』(渡辺みどり著、文春文庫)、『美智子皇后と雅子妃 新たなる旅立ち』(渡辺みどり著、講談社)、宮内庁ホームページ
キャプションは過去の資料をあたり、敬称・名称・地名・施設名・大会名・催し物名など、その当時のものを使用しています。
構成・文/高木香織
編集/立原由華里
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