宝塚歌劇団の団員の死亡を巡って、会社側の対応に批判が集まっています。最も良くなかったのは、亡くなった団員の家族に対し、いじめなどの被害について「証拠を見せて欲しい」という言い方をしたことでしょう。
既に亡くなっており、完璧な証拠を出せない立場にある自殺者の家族に対し、「被害を訴えるなら証拠を見せろ」というのは、絶対にあってはならない発言であり、多くの国民が嫌な感情を持ったことと思います。
しかしながら、言い方はともかくとして、説明責任がある側の人間や、責任を取らなければいけない側の人間が、指摘する側の人間に対して「証拠を見せろ」と事実上、不可能な要求を突きつけるというのは、日本社会では日常的によく見られる光景です。典型的なのは政治家や公務員の国民に対する振る舞いでしょう。
例えば、政治家や公務員が不正行為を行う場合、誰にも分かるようにしているケースなどあるはずがありません。政治家や公務員は権力を持っていますから、これが表に出ないよう工作できる力があり、一連の不正行為は大抵、裏で行われます。したがって表面に出てくるのは、ごくわずかな情報に過ぎないということがほとんどです。
東京オリンピックに関する不正行為もまさにそうでしたが、不正行為を指摘、追求する側は、ごくわずかな情報を頼りにそれを探っていく以外に方法がありません。持っている情報量の差は当初から圧倒的ですから、指摘する側が不利になるのは明白なわけです。
こうした状況で、政治家や公務員の行動に疑念があるという指摘が行われると、一部の政治家や公務員は「名誉毀損だ」「証拠を出せ」と騒ぎ立て、追求する側を脅迫してくることはザラにあります。情報量に圧倒的な差がある場合には、指摘する側が不利であることを前提にしなければ、公正な社会を実現することは不可能です。
もちろん指摘する側に悪意があるケースや、結果的に間違っていたというケースもあるでしょう。もしそうであれば、一連の問題が解決してから責任を追及すればよい話であって、問題を指摘する行為そのものを抑圧してしまうと、永久に不正が表に出ないことになってしまいます。
立場の高い人に対する質問や指摘そのものを封じ込めるというのは、独裁国家では典型的な社会慣習です。こうした行為を許さないという雰囲気を作っていけるのかは、まさに民主化の度合いを示すバロメーターといえるでしょう。
不正行為とまではいかなくても、似たような問題はたくさん起こっています。
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