コンプラを気にする人が「気にしすぎ」なだけ?

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大事だと思うのは、「何でもハラスメント」「コンプラコンプラうるさい」「だから何も言えないしできない」みたいに、ダメだからダメ、と思考停止するのではなく、なぜハラスメントがダメなのか? なぜコンプラが必要なのか? を考えることだと思います。

前編でも触れた通り、この『不適切にもほどがある!』には、なんでもダメダメと言うだけではなく、なぜダメなのかを考えるきっかけになってほしいという意図があるようですが、まるでコンプラを気にすること自体を茶化すように見える演出も多いのです。制作側は全方位を茶化しているだけ、考えさせる意図がある、という声も多いですが、どんな意図があろうと、どんな効果をもたらしてしまっているか、という結果のほうが重要だと思うのです。

テレビ局のプロデューサーが、急遽番組の代打MCを務めることになったタレントのコメントを、過剰に視聴者を気にして「それコンプラ的にアウトです」と訂正・謝罪させるシーンもあるのですが、「コンプラ違反だ!とクレームが入ることを恐れる人を滑稽に描くこと」で、まるでコンプラに配慮すること自体が馬鹿馬鹿しい、コンプラを気にする人が気にしすぎなだけ、みたいな印象に持っていってしまうんですよね。

 

傷ついてきた人たちの痛み」を矮小化してはいけない

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こういう配慮をしましょう、と言うと、「いやいや気にしすぎでしょ」「マイノリティうるさすぎ」みたいな反応がよくこの社会では見られますが、それを地で行っている感じ。今まで明らかに倫理的にアウトな表現がまかり通ってきた歴史があった上でコンプラを意識するようになっているのに、明らかに人権を無視したり、誰かを踏みつける表現をした側ではなく、それを気にする側の“感じ方”の問題にすり替えてしまう。結果として「ガタガタうるせえな」とでも言わんばかりに、コンプラを重んじる声を封じるような作用があって、罪深いなと感じます。

今までさんざんハラスメントに耐え、尊厳を傷つけられてきた人たちがいる。長時間労働が原因で亡くなった人たちがいる。セクシュアリティが原因で存在を認めてもらえなかった人たちがいる——。そういった歴史があって、今やっと変わりつつあるということを、思い出す必要があるのではないでしょうか。それを無視して冷笑するのは、傷ついてきた人たちの痛みを矮小化する行為です。