他人の面倒を見たり尽くしたりし続ける母親に、自分の未来を見てしまう


格差社会と住居貧困が深刻な韓国・ソウル、その郊外の農村地帯にぽつんと佇む黒いビニールハウス。主人公ムンジョンは夫と離婚して以来、そこで一人暮らしをしています。豊かな老夫婦ーー認知症の妻と盲目の夫ーーの家で通いの介護士として働く彼女は、病院には入院中の実母も抱えています。心の支えは少年院にいる息子の存在で、再び一緒に暮らすことが唯一の夢。そんな彼女が、まるで自分を罰するように自身を猛烈に殴る場面から、映画は始まります。

イ・ソルヒ監督(以下、イ監督):自分の実の親であったり、誰かの親であったり、自分の息子であったり……主人公のムンジョンは、生涯誰かの世話をし続けている人物です。彼女が自分自身を殴る場面を描いたのは、ありえない生活、ありえない人生を、非常に苦労しながら生きていることを表現する意図がありましたが、おっしゃるように自分に対する処罰とも言えるかもしれません。私自身、自傷していた時期があり、そういう辛い現実を描いてみたかった、切迫したものがあったんですよね。当時は自分自身が嫌いだったし、自分を傷つけることでしか大嫌いな世の中を否定する方法がみつからなかった。ムンジョンもまた、そんな自分を殴ることでしか生きられない人です。自分を否定することで初めて、他人の面倒を見たり、尽くしたりできる人間になれる。だからこそ毎朝「生きなければ」と自分の頬を叩くんです。

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寒々しいビニールハウスの家で目覚め、介護する老夫婦の認知症の妻ファオクの暴言や暴力をやりすごし、心の病の自助グループに通い、息子からの連絡を心待ちにするーームンジョンのそんな厳しい日常は「ある事件」で一変します。介助中にもみ合いになった末、誤ってファオクを死なせてしまうのです。ムンジョンが病院から連れ出した実母に「ファオク役」を演じさせることにしたのは、ファオクの夫が盲目だったから。そして、退所間近の息子とようやく一緒に暮らせそうだったから。物語は強烈なサスペンススリラーとして転がり始めるのですが……それは、さておき。こうしたスリラーの着想は、自身の祖母を介護していた母親の姿からだったと、監督はいいます。

 


イ監督:私の母親は生涯奉仕活動をしていた人で、いつも熱心に誰かの世話をしていました。でも祖母が認知症になって一時的にうちで過ごすことになった時、他の誰を世話しているときよりもずっと辛そうだったんです。それを見た時に感じたのは、人間の心の暗闇、彼女が持っている何かしらの欲望みたいなものだったんですよね。母娘の関係の難しさといったものとは違うんです。私たちが見せられている母親像は、つまるところ「自分に迫っている未来の姿」なんですよね。それを受け入れるのが嫌だし、受け入れ難い、そういった状況だったんだと思います。人間の歴史は、親が子供を産み育て、年老いていくということの繰り返しで、人が誰かしらの面倒を見るというのは当然の流れなんですよね。にもかかわらず、扶養しなければいけない子供や、面倒をみなければいけない親の存在が、すごく大きな足かせに感じられてしまう――今の世の中はそんなふうになってしまっている。そうした中で、私たちの世代は「だから結婚しない、子供も産まない」という選択をするようになってしまいました。特に女性として生きていると、人生の中で非常に多くのことを諦めざるをえません。本当に悲しい現実だと思いますが、いずれにしろこの物語のベースにはそういうものがあったように思います。

破滅への道とは気づかずに、一歩また一歩と進んでいくムンジョン。映画はそのスリリングな過程を描きながら、周辺にいる様々な女性たちが「囚われているもの」も描き出します。例えば認知症のファオクがムンジョンに辛く当たるのは、自身が失った若さや美しさを彼女の中に見るから。自助グループで出会う知的障害のスンナムは、一人になることを恐れています。ムンジョンの実母と同室の患者の娘は、「一人になるのが怖い、絶対に死なないで」と母親を看病し続けます。

イ監督:極限の状態でストーリーを展開しなければ、私の意図は伝わらないという風に思いました。病院で母親を看病をしている娘については、この映画の取材で初めて言及していただけて嬉しいです。彼女は泣きながら「一人になるのが怖い。絶対に死なないで、長生きして」と言っていますが、実は「早く死んで、私が辛いから」と言うふうな叫びに聞こえてほしいなと思っていたんです。自分の親もいつかは年老いて病を患う、そしておそらく自分自身にもそういう時がやってくる。その時に自分の子供がそこにいるのか、いられるのか。そういう未来について少し考えた方がいい、と思うんですよね。