悪意や敵意より厄介なのが、無理解の善意
この世の地獄の中で最も厄介なもの。それは、無理解の善意ではないでしょうか。悪意や敵意はまだマシなんです。なぜなら、向けられた悪意や敵意には戦意で対抗できるから。事実、これまで男子学生からの野次や偏見に何度もさらされてきましたが、寅子が屈することはありませんでした。
けれど、善意は違う。あなたのためを思って、という生ぬるい毛布に包まれ、気づけば簀巻きにされている。相手の優しさから発せられるものだとわかるから、こちらも無下にはできない。でも肌ざわりの悪い毛布は、じわじわとアレルギーを起こし、身動きを奪い、戦意を喪失させる。筋違いの優しさは、罪にならない暴力なのです。
穂高は、たとえ寅子が志半ばで倒れても、その意志を継いだ新しい世代がいつか必ず世の中を変えてくれると説く。でも、そう言えるのは、穂高が安全圏にいる人間だからです。穂高は、子どもができても仕事をあきらめなくていい。だから、喫緊の問題ではない。
でも寅子は違う。寅子には、子を持ちながら働くことは、今まさに差し迫った問題。いつか世の中が良くなると言われても、何の解決にも慰めにもなりません。時代の人柱になるために、人は生きているわけではないのです。
寅子と穂高のズレは、現代にも通じること。妊娠・出産に関する整備の遅れもそうですし、もっと言えばあらゆる法改正のスピードもそうです。たとえば、夫婦別姓や同性婚。どんなに声を上げても、「家族観や価値観、社会が変わってしまう課題」とされ、遅々として進みません。一方で、共同親権に関しては同じく「家族観や価値観、社会が変わってしまう課題」でありながら十分な議論がなされないままスピード可決される。
この違いはつまり決定権を握っている人たちにとって、当事者性の高い問題であるかどうかです。もしも穂高が寅子と同じ女性だったら、あるいは同じように子を持つことでキャリアが中断される痛みを味わったことがあったなら、「犠牲」なんて言葉は使わなかった。
もちろん穂高はあの時代の男性としては非常に進歩的な考えの持ち主です。女性が活躍できる社会を実現したい、という理念も嘘ではないでしょう。ただし、決して自分ごとではなかった。だから、現場の声に寄り添うことができなかった。これもまた昨今の女性活躍社会推進に似たところがあるかもしれません。
Comment