今年度のアカデミー賞で国際長編映画賞と音響賞を受賞し、数々の映画賞を総ナメにした話題作『関心領域』が、日本でも5月24日に公開に。SNSでは観た人たちのレビューが連日、トレンドになっています。
レビューでは賛否両論分かれていますが、それは『関心領域』が多くを語らず、観る側の感受性と想像力に補完を委ねる作品だから。
※本記事には作品の重要なシーンに触れた記述があります。
アウシュビッツ強制収容所と壁ひとつ隔てた家に住む、収容所所長のドイツ人家族。壁の向こうで起きていることは一切描かれず、ただし最初からずっと、銃声や悲鳴、ユダヤ人たちを運んできた列車の音が、穏やかな一家の日常の背景に、BGMのように流れ続けます。
冒頭の真っ暗闇のシーンは、ガス室に閉じ込められたユダヤ人たちのことを想像させて、とても怖い。何も映っていないし、まだ何も始まっていないのに。「終始何も起こらなくて退屈だった」との評も散見されますが、私はすべてのシーンが怖くてたまらなかったです。ドイツ人の妻たちは処刑されたユダヤ人が着ていた豪華な衣服を平然と分け合い、子どもたちはユダヤ人の歯で遊び、庭の美しい花にはユダヤ人の遺灰が肥料として撒かれる。――すべてが淡々として描かれ、これみよがしな表現は一切ない。だからこそ、ゾッとさせられる。
彼らにはユダヤ人たちの遺体が焼かれる焼却炉の煙の匂いも舞い散る灰も、銃声のBGMも届かず、そんな異様な環境に建つ家での生活を楽園のように感じて謳歌している。剥ぎ取られた衣服がどこから来たものなのか、知っていても無関心なのか、それとも見て見ぬふりをしているのか。
70万人のユダヤ人をハンガリーからアウシュビッツに移送し処刑する計画に、自分の名が冠されたことを誇らしげに妻に報告する所長も怖かったな……。戦争とは狂気だということを、改めて思い知らされました。
何がいちばん怖いって、彼らは決して特殊な家族ではなくて、きっとこれが「自分たちは優れている」と信じて疑わない人間の、一般的な振る舞いなんだろうなというところ。
ナチスがいかにユダヤ人を効率的にガス室に送り「焼却」するか議論するとき、彼らはユダヤ人のことを同じ人間として認識していない。上司に命じられた任務を遂行しているだけで、お上が決めた「計画」に従うのみ。権威主義の下では、人命など庭園に生える雑草と化してしまう。
そして、夫が転勤を命じられても、美しい家と自分の生活を守り、変えたくないと主張するザンドラ・ヒュラー演じる妻の利己的な振る舞いに腹が立ったけれど、自分は彼女とは違うと果たして言えるのだろうか。
人間は戦争という異常な事態にも順応して、そこで自分が快適に暮らせる権利のためならば、わりと簡単に人道的モラルなんて手放せるのではないか。
スマホで毎日のように流れてくるガザの人々の惨状が、私たちにとって、この一家の壁の向こうから聞こえるアウシュビッツの音のように、当たり前の「生活音」になってしまっていないか。
そういう無自覚な無関心というのは、劇中の所長夫人の言動と結局は同じで、実は悪意とイコールになるのではないか――そうやって、私は観終わってから、ずっとこの映画のことを考え続けています。
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