日常にこそきらめきを見出す。俳優・坂口涼太郎さんが、日々のあれこれを綴るエッセイ連載です。今回のエッセイは前半に引き続き「お涼の大予言〈後半〉」です。自己肯定感がばりばりに高そう、いつもポジティブ菩薩のお涼さん、実際のところはどうなの?

「容姿とか性格とか自分のここ嫌い、でええやん」コンタクトレンズに伊達メガネだった思春期のこと【坂口涼太郎エッセイ】_img0
 

いまやこの顔面で生きていくことに納得している私にも、かつてはこの顔に対してビー・バップ・ハイスクールもびっくりの反抗期がございました。

思春期の私はモー娘。に加入したくて、何度もつんく♂さんが血迷って、モー娘。初のボーイズメンバーオーディションを開催してくれないかと切望していたけれど、ふと鏡を見ればそこに映る自分の姿がもはや「モー娘。じゃなくてモー息子。やん」とかそういう問題ではない、圧倒的な顔面の造形に対する違いというか、あの中にこの鏡に映るニキビ面で、牛乳瓶の底ぐらい厚みのあるメガネをかけていて、メガネを外せば足の裏ほどの凹凸しかないまるで扁平足のような顔面が並ぶことは皆無であるのだろうな、ということはわかりすぎるほどわかっていて、それでも松浦亜弥さんがテレビ番組で「あやや、鼻の軟骨をつまんで鼻を高くしました!」とコメントしていらっしゃる姿を食い入るように見て、夜な夜な鼻の軟骨を力いっぱい引っ張り続け、扁平足からの脱却を図ろうと抵抗を繰り返していた時期もありました。
 

 


自分の理想と実際の自分が違いすぎて鏡を見るのも厭だったけれど、厭厭言ってても仕方ないわけで、ほんならこの顔面で自分の思い描く理想の美に少しでも近づくにはどうしたらいいんやろうと、なんとか鏡に映る自分の顔を直視しながら表情筋をいろいろ動かして、顔のここの筋肉に力を入れたら目力が強くなってまだまし、こうやって口を開いて笑ったらまだまし、唇のここの筋肉を意識して喋ったらまだまし、写真に写るときはこの角度で写ったらまだまし、とましましかしまし言いながら自分が思う美をこの顔面で体現する為の調査研究考察実施を少しずつ始めてみた。

そしたら、モー娘。には入られへんけど、この一重で小さい目もそこだけ見れば、山口小夜子さんや冨永愛さんの目のように見えてくる瞬間があったり、唇も「大写しで見ればアンジェリーナ・ジョリーと一緒やん!」と思えたり、まあ大目に見れるだけ大目に見て、表情筋の力の入れ具合と絶妙な角度によって、「もしかして、おれいけてるかも……?」と錯覚できる奇跡の瞬間が訪れることがわかって、少しずつ自分のコンプレックスに対して譲歩できるようになっていった。

でも、ただでさえ小さい目がさらに5倍で縮小されるビン底メガネ問題をどうにかしようとコンタクトレンズを導入したけど、結局どうしてもメガネをしていない自分の顔の内容がまだ印刷されていないコピー用紙ぐらい空白の空間に感じて、思春期真っ盛りの私はコンタクトレンズに伊達メガネをかけるという体を張る芸人さんのスタイルで高校卒業まで過ごした。

それでも、飽くなきコンプレックス部分への調査研究考察実施の結果、昔の写真を見返す度に「おお、よう頑張ったで、おれ」とちょっと感心するほどあらゆる面で自分では改善の一途を辿ったと思っている。

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思春期、かわいい盛りのお涼さん。(写真:お涼さん提供)

まあ、それも私の美的感覚による見解であって、昔の私の方が美しいと思われる方もいらっしゃると思うし、それはそれでありがとうやし、どちらもちょっと……という方には、ですよね、と言いたくなる。それぐらい自分の顔のことは俯瞰していて、街を見渡せば魚卵のように溢れている顔の数々の私もその中のひとつであり、自分の顔が好きかと問われたら、正直好きではない。でも、嫌いでもない。ただ、愛してる。トレンディードラマの台詞みたいなひと言やけど、私は愛するとは好きも嫌いもそれをそのまま、まるごと全部受け入れる行為やと思っているから、私は自分の顔も含める全部をただただ愛してるんやと思う。それに、この容姿で生まれてきたから獲得した思想や人格があると思うし、それこそが私を私たらしめているものであり、私のプライオリティーであり、世界にひとりだけの私であることを実感する大切な私の他者との違いであるとめちゃくちゃ思う。

 
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