「一番優先したいものは…」妻の大きな決断
「私も夫も、子どもを持たないことは分かっていたし、結婚したばかりで資産形成よりもふたりの楽しみのためにお金を使っていました。共同の貯金は600万円ほどしかありませんでした。また夫は飲み会や趣味の出費が多く、養育費を長年払っていたこともあり、個人の貯金は700万円ほど。私の独身時代の貯金は500万円ほど。
これが夫を支える貴重なお金です。保険があるとはいえ、リハビリはいつまで続くのかわからないし、夫はこの先ずっと仕事ができない可能性も大いにあります。そしてこのお金の一部は、独身時代からコツコツためた私の老後資金。不安で夜も眠れなくなりました。でもそういったお金まわりのことや手続きができるのは私しかいません。まず夫が働いていた会社と今後について話し合うことから始めました」
通勤中に倒れた智樹さん。ただ、広告デザイナーとして業務委託、つまり正社員ではないため、先の保障は充分とはいいがたいものでした。それでも契約を1年間延長するなど、智樹さんと里美さんにできるだけ寄り添った提案をしてくれたそうです。
「夫の人徳だと思います。彼はみんなに愛され、心から心配されていました。また業務委託を続けてくれたことは、夫の回復を共に信じてくれているようで、すごくありがたかったです。このことに力を得て、私はその評判のいいリハビリ病院にお世話になる決意をしました」
個室にいったん入れば、大部屋の空きを待って移ることができるはず。そうすれば個室料はかからず、ぐっと安価です。里美さんは、たとえしばらく大部屋に入れず数百万円をかけることになったとしても、1日でも早く、信頼のおける病院で智樹さんにリハビリを始めさせてあげたかったといいます。
たとえ、夫が自分の顔を忘れていても、2人で過ごした記憶がなくても。
「彼が私を忘れてしまったのは本当に淋しいです。でも、回復するにつれて、『あ、もともとの性格って変わらないんだな』って思うことが増えました。彼は彼、でした。呂律が回らなくても、昔の記憶があいまいでも、ちょっとした冗談を言ったり、茶目っ気を忘れません。改めてその明るさが好きだなと思いました。
病気になってしまって、どうして私たちなんだろうとずっと苦しかったです。でも倒れても、そこで夫婦関係が終わるわけじゃない。それは苦しいかもしれないけれど、毎日のなかには必ず小さなひと笑いがあったりするんですよね」
その後、入院して1カ月後に大部屋に移ることができた智樹さん。リハビリは4カ月で一段落し、自宅療養となります。残念ながら、仕事に復帰するほどにはまだ回復せず、高次脳機能障害(脳が損傷を受けた結果、言語や記憶、思考、学習などの脳機能に障害が起こった状態)と、右半身の麻痺を回復させるため、引き続き通院が必要でした。
里美さんは、在宅介護をスタートさせます。しかし、それまで以上に自身の仕事にもコミットする必要がありました。なにせ大黒柱は里美さん。仕事は大切な命綱です。1カ月ほど行政の制度やヘルパーさんの力を借りて介護をしますが、一人では限界を感じたそう。
「自宅に戻ると、ふいに智樹さんは私と生活していたことを思い出す場面もあり、それがとっても嬉しかったし活力になりました。でも、そんな嬉しい兆しがあるにも関わらず『妻だから私がやろう、せっかくとりとめた命、できるだけ一緒にいよう』と思うほど、私は夜眠れなくなって追い込まれていきました。車椅子を押してトイレの介助もあり、睡眠が細切れになったこともすごく関係していると思います。自分が情緒不安定になっていくなかで、まずい、これは共倒れになると。
一緒に暮らしたのは5年にも満たず、それなのに別々に暮らすのか、体が不自由になったからといって施設に入れるのか……。罪悪感が湧いて、なかなか一人で結論がだせませんでした」
悩む里美さんの背中を押したのは、意外な人物の一言だったのです。
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