誰しもが多かれ少なかれ、手放せない何かを持っているはず


森山さんの言葉の中には「演じること(必ずしも俳優に限らない)」や「物語」のエッセンスが語られているように思います。何らかの役を「演じる」ためには「物語」からある程度の距離を取り、俯瞰した目で自分なりに解釈することが必要です。個人的な感情を排し、理解しようと務め、そういうこともあるのだと受け止める。それはある意味では「許し」とか「受容」のプロセスにも似ているようにも思えます。その先にある「理屈を超えたなにか」は、そうした過程を経た上でしか手が届かないのかもしれません。

森山未來「まるで俳優のように虚構の世界に寄り添う」認知症の父の真っすぐさに感化された息子の思い_img0
 

さて「理屈」と「理屈を超えたもの」のあわいを行き来する作品は、例えば「水の中にあった塩」とか「時代遅れになった学問」というような、「そこから消えてなくなってしまったもの=不在」の存在を示してゆきます。でもそれらは実のところ「消えてなくなったかに見える」だけ。認知症の陽二も同様で、彼の心の中、頭の中から何もかもが消えてしまったように見えて、すべてが存在していることを、映画は示唆します。むしろ決して消えない思いーー自分だけの秘密だった大切な思いや、人に知られたくなかった後悔といったものは、むしろ認知症になったがゆえに、理性の軛を解かれ、痛々しくもこぼれ出てしまうのかもしれません。俳優である卓が参加する舞台、イヨネスコの『瀕死の王』のセリフーー「あんたが引きずっているその足かせ、それがあんたを歩けなくさせる」が、陽二と重なります。「手放せない思い」を手放すのが幸せなのか、それを「自分だけの足枷」として守り通すことが幸せなのか。そんなことも考えさせられます。

森山:そういうことを考えながらこの映画を見てもらったら、すごくいい気がします。どっちが幸せなんでしょうね。でも多かれ少なかれ、そういうものは誰しもが持ってるとは思いますし、墓場まで持ってくみたいなものもあると思います。僕自身にももちろんあると思いますよ。でも今はーー今のところはですが、自分自身の大きな後悔、あれさえなければ、というようなことはないですかね。ただそういうすべてが自分と地続きだし、それも含めたものが僕自身ではあるのかなと思います。

 


<INFORMATION>
映画「大いなる不在」

森山未來「まるで俳優のように虚構の世界に寄り添う」認知症の父の真っすぐさに感化された息子の思い_img1
 

小さいころに自分と母を捨てた父が、警察に捕まった。

連絡を受けた卓(たかし)が、妻の夕希と共に久々に九州の父の元を訪ねると、父は認知症で別人のようであり、父が再婚した義母は行方不明になっていた。卓は、父と義母の生活を調べ始めるが――。父と義母の間に何があったのか?すべての謎が紐解かれた時、大海のような人生の深みに心が揺さぶられる、サスペンス・ヒューマンドラマ。

2023年/日本/カラー/アメリカンビスタ/5.1chデジタル/133分/G
製作・制作プロダクション:クレイテプス
配給:ギャガ
©2023 クレイテプス


撮影/榊原裕一
取材・文/渥美志保
構成/坂口彩
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