「おもしろい画が撮れさえすれば」それでいいのか?
自分たちがほしい画(え)を撮るために、取材相手に失礼な質問をぶつける、都合のいいように印象操作するということも横行しているのだとか。
おもしろい画が撮れさえすれば、多少の犠牲は仕方ない——。私は次第に、その感覚に嫌悪感を覚えるようになってきました。
また、メディアの自浄作用の乏しさについても言及されています。
ある人物による過激な発言が問題視され、活字媒体やX(旧Twitter)では議論が起きている。にもかかわらず、映像業界では、そうした人物のことも、「高い視聴率が取れるキャラの強い人物」という見立てで、平然と起用し続けたりする。
確かに、例えば性加害の疑惑がある芸能人や、差別的な発言を続ける著名人を、数字が取れるからと起用し続ける光景はよく目にします。優先されるのは人々を強く惹きつけ、煽る力で、倫理観や人権意識は二の次、という姿勢はいまだに根強いのではないでしょうか。
今年1月に開催された「テレビと人権」をテーマに審議された会議で、「人権意識が強くなりすぎると良い表現ができなくなり、テレビ局の挑戦も締め付けられ、番組がつまらなくなり、世の中から見捨てられてしまうのではないか」(第533回 番組審議会議事録概要)という発言があがったことが大きな波紋を呼びました。「行き過ぎたコンプライアンスが息苦しい」という声が根強いですが、実際はまだまだコンプライアンスは蔑ろにされているのではないでしょうか。
こういった人権意識やコンプライアンスへの鈍感さは、性的シーンでのトラブルと地続きなのではないでしょうか。根本的に人を大切にする意識がない人が、俳優を大事にできるとは思えません。人材は使い捨てで、自分の欲望のための道具だと捉えるような人がいたら、俳優への強要といった問題も起き得るでしょう。インティマシー・コーディネーターが認知されるようになり、起用される作品が増えてくるようになったことは大きな希望ですが、俳優だけでなく、そこで働く人すべてのためにも、映像業界全体の姿勢が変わっていくべきだと思います。
文/ヒオカ
構成/金澤英恵
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