望んで改姓した私が、はじめて知ったこと


私は戸籍上の姓が変わることに抵抗はなかった。生まれた時から名乗っていた姓には特に思い入れがなかったし、姓が自己同一性の裏付けになっているという意識もなかった。改姓は私にとっては、あくまでも自分の意思で個人の苗字を変えることだった。そして新しい苗字を名乗るのが面白くて、迂闊にも嫁プレイをしてしまった。イエ文化に馴染みがなかった私は、自分が何をやっているのかわかっていなかった。ただの異文化体験じゃない。これは個人であることを放棄するという意思表示になってしまうんだ。私が改姓したのは個人の意思であって、個人であることを放棄するためじゃない。でもそうは受け取らない人々がこの世には存在することを知った。

ワクワクで夫の姓を名乗った私の結婚。「嫁プレイ」を抜け出して今、いろいろあった夫と労い合いたいこと【小島慶子】_img0
写真:Shutterstock

だから朝ドラの主人公や、夫婦同姓に抵抗があって事実婚を選んでいる友人知人たちの「姓を変えたら自分が消えてしまう気がする」という気持ちは切実なものだろうと想像できる。結婚に際して、私自身の選択が制度によって阻まれることがなかったように、誰もが自分の望む相手と、自分が望む形で一緒に生きていけるようになりますように。個人の意思で選べるようになりますように。今はまだそうなっていない。婚姻では大抵の場合は女が男の姓を名乗ることになるが、私のように面白がってそうする人ばかりではない。そして望んで改姓した私も、結婚して24年経った今でも生じる手続き上の面倒ごとに辟易している。女は男に合わせるものという前提は、そこらじゅうに残っている。

 

先日放送されたドキュメンタリー番組で、太平洋戦争のサイパン戦の絶望的な局面で軍幹部が「女こども玉砕してもらいたし」と発言していたことを知った。男たちが玉砕する時には、島で暮らす女こどもも当然それに殉じるべきであると。女こどもの命も男たちの命もその人たち自身のものではなく、お国なるもののものだった。お国は近隣諸国を侵略し、自国の人々に「人を殺して死ね」と教え込んで10代の子どもたちや20歳そこそこの若者たちを戦地に送り、ろくに補給もない中で精神力で戦い抜くことを命じ、敵に体当たりして死ねと命じた。誰かの息子や父親である人たちは、兵士となって人を殺し、女性を犯し、戦いで殺され、飢えと病に斃れ、あるいは心身に生涯癒えない傷を負った。銃後では、戦争に熱狂していた人もそうでない人も、空襲や地上戦や原爆で紙屑のように焼かれた。一億玉砕の総力戦では、人は100000000分の1の存在に過ぎない。意思決定者たちにとって、人はただのヒトという名のモノである。

そんなひどい戦争から79年経った今、日本の社会を支えているのは、いつでも切り捨てられる安い労働力として扱われている人たちだ。運よく正社員になれた人も、個人の名前ではなく会社名や役職名や、何十年も前に卒業した大学名を言わなければ人間扱いされないのではないかとビクビクしながら生活している。年中そんな不安にさらされていると「肩書と学歴と、稼ぎのある人」しか人間に見えなくなる。それ以外はただの、人の形をしたモノだ。

夫や子どもを大切にしている人が、派遣社員をいじめる。友達や恋人に優しい人が、SNSで見知らぬ人を罵倒する。妻や娘を大事にしている人が、女性を性的に搾取し、蔑む。同じ人がなぜと思うが、当人に疑問は生じない。前者は自身にとって価値のあるニンゲンで、後者はただのモノだからだ。このように、ヒトの形をしたものにはニンゲンとモノの種別があるという発想が、あらゆる差別と暴力を生んでいる。

人はモノではない。全ての人が一つきりの身体を生きる等価で無二の存在だ。だがそうはなかなか思えない。知らない人や嫌いな人やひどいやつが、自分や自分の大事な人と同じ価値があるなんて、納得がいかないだろう。だからこそ、全ての人は等しく尊ばれなければならないと言い続ける必要がある。それを侵す者を許してはならない。あらあら、力んじゃってと煎餅片手にこれを読んでいるあなたは、気の毒な誰かの命を尊んであげる側にいると思っているかもしれない。それが人をモノ扱いする発想なのだ。あなたも知らない場所に行ってひとりぼっちのよそ者になったら、自分も同じ人間なのだからどうか等しく尊んでほしいと切望するようになるだろう。