偏見は、必ずしも悪意ではない


改めて考えると、私も無意識のうちに人に偏見をもったり無駄な憶測を立てることがあるし、なるべく意識して捨てていきたいもの。

そこで久しぶりに思い出しちゃったんですが、私自身も過去に偏見を持たれたことがあったなと。

言わないと気づかれないのですが、私は父親がフィリピン人のハーフです。東京とはいえ下町育ち、そして30年前、近所には他に外国人の姿はほぼ見当たらず、そういえば「外人」とからかわれることも多かった。

鮮明に覚えているのが、小学校の頃に社会の教科書に世界の貧困例として出てくる「フィリピンのストリートチルドレン」。それを学んだクラスメートたちが、「じゃありさちゃんのパパはフィリピン人だから貧乏なんだ」と無邪気に発した一言に、無防備だった私は物凄い打撃を食らった記憶があります。

「性格に難アリだと、自分がしんどい...」39歳、加齢のエネルギー不足で“性格が丸くなり”わかったこと _img0

私の家は特に裕福ではないですが、両親は子どもにかなり甘いほうで、特に経済的に不自由したことはありません。むしろ恵まれていたほうだとも思います。でも、教科書の小さな記述と写真一つで、貧乏な国から来た貧乏な人というレッテルを貼られることもあるんですね。

 

また、20代の頃何度かデートした男性に父親がフィリピン人だと話すと「あー、そっか……。うち、“あいのこ”はダメって親から言われてるんだ」と言われたことも。このとき、ハーフを少し古い言葉で“合いの子(混血児)”というのを初めて知りました。(今では差別用語なので使わないほうがいいです)

でも今だから思えるのが、このクラスメートにも男性にも、きっと悪気はなかった。

たぶん、ただフラットにインプットした情報をアウトプットしているだけで、事故みたいなもの。(それに家柄的な事情も現実的にあることも理解できるので、むしろデート段階で教えてもらえてよかったと思います)

それに、同じような事故を私だって無意識に起こしている可能性は大いにあります。相手には深い傷を負わせ、でも私は悪気もないし覚えてもいない。みたいなことはきっとゼロではないだろうと少し怖くなりました。

そんなこと考えてたら、現在家族でドバイ在住・大学時代からの古い友人であるれみが、ブログである発信をしているのを見つけたのです。