さてこの「家族」の最底辺は誰か。それは「嫁」です。

「嫁」が婚家の家族を呼ぶ時に「ニム(様)」をつけなくていいのは、夫の妹とその夫、そして弟の妻だけ(妹の地位の低さ!)。もちろん「ニム」との会話は敬語です(丁寧語でなく)。「ただ便宜的に“嫁”と呼ばれてるだけだし、ムキになって波風たてるのも」と考える人、「“嫁”の役割を受け入れる気なんてないし」という人もいるでしょう。でも家族を含む周囲の人たちに、ことあるごとに「嫁は義弟に敬語を使うもの」とか「家族のケアは嫁の仕事」とか「嫁は三歩下がって」とか言われているうちに、反抗するのが面倒、いちいちイラついてたら自分が疲れる……からの心頭滅却が日常化するのもよくあること。そうするうちに、鍋のフィニッシュで自然と雑炊作り始めちゃったりなんかするわけで。

「奥さん」「嫁」「〇〇ちゃんのお母さん」etc. その“呼び名”によって役割を刷り込まれていませんか?_img0
 

一方、例えば日常的に義姉に「ソバンニム(旦那様)」と呼ばれ敬われる義弟は「(立場として)義姉よりも自分が上」と認知しているし、持ち上げられるうちに増長しちゃう政治家みたいな感じで、当初は違っても次第にその気になっちゃうのが人間ってもの。呼ぶたび、呼ばれるたびに、互いの役割と立場が無意識下に刷り込まれ、その意識が補強されていく感じ、っていうんでしょうか。

所属する社会のネガティブな「ステレオタイプ」を意識するあまり、本来の実力が発揮できなくなってしまうことを、社会心理学では「ステレオタイプ脅威」と言うようです。「呼び名」は時としてそうした刷り込みに効果絶大で、だから注意が必要です。

例えば「奥さん」とか「家内」は「家の中、奥にいる(べき)人」という意味で、私個人としては既婚女性をそうは呼びたくありません。

「〇〇ちゃんのお母さん」なんて、社会が強いる役割そのもの。夫婦別姓を望む気持ちは、こういう感覚を忌避する気持ちの延長線上にあるのかもしれません。つまり「家族」でなく「家制度」の中(とそこにある性別的役割分担)に、否応なく飲み込まれる感覚というか。

日本では夫を「オッパ」ならぬ「主人」と呼ぶけども、そういう日常に慣れちゃうと、自分の人生の「ご主人」は自分であることを、忘れちゃうんでは……なんてことも思うんだよなあ。

【参考文献はこちら】『家族、この不条理な脚本』キム・ジヘ著、尹怡景 (翻訳)、 梁・永山聡子 (解説) LGBTの権利や性教育を認めれば「家族が崩壊」する?私たちを無意識に拘束する「健全」な家族という虚像が作りだす抑圧や差別、排除を可視化する。日韓累計25万部『差別はたいてい悪意のない人がする』の著者待望の第2作。
写真/Shutterstock
 

「奥さん」「嫁」「〇〇ちゃんのお母さん」etc. その“呼び名”によって役割を刷り込まれていませんか?_img1
 

前回記事「【何故いま、ブルーインパルス?】という疑問から自民党の裏金体質を考える」はこちら>>

 
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