前編では、正当な理由なく親友が遅刻し、ちゃんと謝ってくれなかった際、怒りを言葉にしたという話をしました。
今まで私は、相手が大切であればあるほど、自分が色んな感情を呑み込んで我慢し、機嫌よく振る舞い、寛容な私であるべきだ、と思っていました。声を荒げたり、怒りをぶつけるのは、縁を切るも同然の行為だとすら思っていたのです。
面倒くさい人と思われたくない
“面倒くさい人”と思われるのを、何より恐れていたのだと思います。たとえそれが理不尽なものでも、どんな要求も呑み、何か言われたら「なぜですか?」「これはどうでしょうか」なんて言わずに「はい」と答えるような、従順で聞き分けのいい「いい子ちゃん」であること、自分の中で感情にけりをつけることこそが大人の対応で、自分を守ること、正しい処世術だと信じて疑いませんでした。
でも、その考えを改めさせられる出来事がありました。
ある仕事相手と長期に渡って仕事をしていたのですが、ある日突然、感情が堰を切ったように崩壊してしまったのです。自分でも気づいていなかったのですが、相手の行動の積み重ねによる負の感情がたまりにたまって、毒のように体内に回っていました。
例えば、メールが返ってこない、ムチャぶりともいえる理不尽な要求をされる、ちゃんと話したいと言ってもあしらわれる、正当な対価を払ってもらえない。上げればキリがありませんが、そういったことをずっと我慢していました。
前編「親友が理由なくよく遅刻するようになったら、怒るべき? 関係を長く続けるために本当に必要だと思ったこと」>>
本能で嗅ぎ分ける、この人には意見できるかどうか
人間って、本能的にこの人には思っていることや疑問を言える、この人には言えない、というのを嗅ぎ分けて察知する生き物だと思うんです。振り返ってみればですが、私はその相手に理不尽な要求をされても、なぜそれをしないといけないのか? とどうしても言い出すことが出来ませんでした。本能的に相手に気を許していなかった、この人は受け止めてくれると信頼できていなかったのかもしれません。
その結果、知らない間に体内に膿がたまり続けていました。そして、気づいたときにはもう手遅れ。後の祭り。相手の顔を見て話すこともできないくらい、相手への憤怒の念がたまりにたまっていたのです。
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