本当に健全な関係とは何か


思い出した出来事があります。まだ新人だった頃の仕事相手で、初めて大きな仕事を一緒にしていた人がいました。その人との記憶は正直、今思い出しても苦いものです。

その人はとても辣腕で、仕事のセンスは抜群でした。信頼して仕事を進めていたのですが、完成し、宣伝活動をする際、意見の大きな違いが生まれたのです。その人も私も、お互い仕事で絶対に譲れない信念があり、それが真っ向から対立してしまったのでした。

人間関係の知恵「仏の顔も三度」の新解釈! 相手の言動にモヤッとしたらとりあえずの居心地の良さより優先すべきもの_img0
写真:Shutterstock

深夜に長文のチャットを送り合い、強い口調で言い合いになりました。でも、結果としてはお互い譲れる限界を決めて、決着をしました。その後は気まずくなることはなく、いまでも連絡を取り合う関係です。私は当時新人で、その人はベテラン。立場の差はありましたが、思い返せば、私は臆することなく自分の意見を言うことが出来たのです。

 

半ば喧嘩のような形にはなったことは、正直今でも心の傷ではあります。でも、今振り返ると、お互い思っていることを率直にぶつけあえる関係こそが健全ではないか、と感じるのです。

もちろん、聞き分けのいい“いい子ちゃん”にならずに自分の意見をハッキリ言うことで、角は立つし、一時的には気まずくなってしまうのは事実です。でも、短期的な居心地の良さより長期的な信頼の方がよほど大事なのです。その場しのぎで言いたいことを呑み込めば、長期的には必ずほころびが生まれます。自覚がないうちに、我慢して押し殺した言葉や感情は、負のエネルギーとともに体内にたまり続けているのです。

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「仏の顔も三度」の新解釈


「仏の顔も三度(まで)」という言葉があります。これは、どんなに寛容で慈悲深い人でも、無法なことをすれば怒るという意味だそうですが、一連の出来事を振り返り、このことわざの違った解釈が思い浮かびました。

それは、仏の顔も三度くらいまでにしておかないと、結果的に自分の感情も相手との関係も限界が来る、ということです。「仏の顔は三度までしかできない」ではなく、「仏の顔は三度くらいまでにしておくべき」なのです。でないと精神衛生的に本当によくありません。

私は、相手に何をされても、38回くらい仏の顔をし続けてしまった結果、メンタル崩壊寸前まで追い詰められ、相手との関係は修復不可能になってしまいました。

言いたいことは言うべきだし、疑問に思うことがあったら聞くべきだし、納得できないのなら呑み込まずに話し合うべきなのです。それはわがままでもなんでもなくて、自分を守るためだけでなく、相手を守るためでもある、ということを学びました。