夫婦が対等である、とはどういうことをいうのか
40歳を過ぎて想定外の片働きになった不安から、夫に「誰のおかげで食べていけると思っているの」と心ない言葉を浴びせたこともあった。これじゃ、心底軽蔑していた家父長主義の男たちと同じじゃないか。もうそんなことをしたくないから、早く共働きに戻りたいと思った。経済的な強者が弱者を支配する構造を夫婦間に持ち込みたくないと思ったのだ。だけど当然ながら、相手が経済的に自立していなくても対等な人間として扱うべきだ。親子がそうだろう。ではなぜ私は、配偶者とは経済的な自立なしには対等になり得ないと思ってしまうのか。8000キロ離れた二拠点生活を家族4人で生きていくために、日本で有償労働を担う私と、豪州で子どものケアという無償労働を担う夫はいずれも不可欠な存在だ。にもかかわらず夫婦が対等ではないと感じていた私は、やっぱりお金を稼ぐ人が偉いという強い思い込みに縛られていたのだ。夫には「偉い人」であってほしいという願望にも。
男性だって、子育てに専念する道を選んでもいいはずだ。なのに、女性がそうする場合よりも厳しい視線を向けられる。私も夫に対して「逃げている」「甘えている」と非難したことが何度もあった。けど、言葉も覚束ない異国での孤独な育児で一杯一杯の時に、学位取得や起業や就職への挑戦から逃げちゃいけないのだろうか。それは「逃げ」なんだろうか。そんなことしなくても、もう十分戦っているじゃないか、日々の生活と。
と書きながらもまだ、夫に対して私は心の奥深いところで「私の夫ならこうであってほしい」という幻想を捨てきれずにいる。「夫」ってやつにいったい私は何を期待しているのか。自分の男版か? どうも配偶者との境界線をうまく引けないらしい。「私の夫」だと思うからいけない。これからは、20年以上一緒に子育てをした親友とルームメイトになると思えば、夫幻想を押し付けなくて済むかもしれない。ところで彼の胸の内には、妻幻想があるんだろうか。そんなものは迷惑でしかないが、怖いもの見たさでちょっとのぞいてみたい。
前回記事「「いつも頼れる巨木でいてね」夫とは本当に対等な関係だっただろうか。あの頃の自分に言ってやりたいこと【小島慶子】」>>
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