お姫様から母親へ
強烈な母親に面食らって、対策を考えあぐねている間に、秋が深まっていた。
空気が乾いて冷たくなってくると、もう入試本番はすぐそこだ。毎年、この緊張感は決して変わらない。しかし今年はとくに落ち着かない。
沢田家のおおかたの内情はわかってきた。
まず父親は驚くほど家にいない。都内の大学病院の外科医だと言うが、もちろん激務だろう。祖父は郊外の大病院の院長で、ゆくゆくは斗真くんの父親もそこを継ぐらしい。医者になるのが至上命題の家、というわけだ。
ともかくこれほど父親の気配がないというのも珍しい。土日も家庭教師に来るが、在宅していたのは1カ月で1回だけ。挨拶を交わしたが、息子の家庭教師にはさしたる興味がなさそうだった。「医学部に入れれば中学はどこでもかまわない。医学部の進学実績が高い学校に、どうぞ入れてください」と言って書斎にひっこんでいった。おそらく自分の仕事のことで頭が一杯なのだろう。
そして母親。こちらは相変わらず不気味の一言。たまに授業中、コピーを頼みに居間をノックすると、中から甘ったるい声で電話をしているのが聞こえる。声を潜めているけれど、端々にうきうきした気持ちが見て取れる。
少々大き目に足音を立ててからノックをすると、慌てて電話を切るのだから、おそらくそれは誰かに聞かれてはまずい電話なのだ。
――子どもを地方の全寮制に入れたい理由はこれか。
とにかく、母親は母親であることにうんざりしていた。
1分でも早く、自分が楽しいこと、生き生きとできるシーンに戻りたいのだ。医者にしなくてはならないというプレッシャーからも、退屈な教育ママというセコンド役からも、降りたくてたまらないのだろう。
そのこと自体は理解できる気がした。東京の知識層のラットレースを勝ち抜くためには総力戦だ。これまでおそらく美貌によってお姫様のように生きてきた女に、急に軍師として、縁の下の力持ちらしく立ち回れといっても、一朝一夕にはいかない。ブランド主義を上手に教育熱にすり替えられる女も多いが、そうできない女がいても不思議はない。
「せんせ~、オレお腹がすいた。ちょっとママから何かもらってきてよ」
いかにも適当に終わらせたプリント。斗真はそろそろ直前期であるにもかかわらず、さっぱり勉強に身が入らない。
ただ、それでも成績は悪くない。まるで図ったように、すべて偏差値48。いつも平均点にわずかにたりない点数。
計算している。彼は、間違いなく。
「斗真くん、今度の日曜日は合格力判定模試ですね。先週渡した暗記チェックリストは自習しましたか?」
「あのプリント、どっかいっちゃったんだよね」
「そうですか。まあそういうと思って、もう一部印刷してきました。これを今からやりましょう。そしてもうひとつ。今度の日曜は、私が模試会場の学校まで送ります」
あまりにも予想外だったのだろう。斗真くんは飛び上がってこちらを見た。
「はあ!? 模試に? せんせーが? 授業もないのに? いやいや、そんなん聞いたことないって」
「模試は本番の予行演習ですから。みっちり付き添って、当日の心得を叩きこみますよ。お母さんにもすでにお願いしてあります」
明らかに動揺している。俺はここが勝負だとばかりに、不敵に笑ってみせた。
次回予告
家庭教師のイレギュラーな動きに動揺する受験生の斗真。次第に調子が狂いはじめ……?
イラスト/Semo
編集/山本理沙
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