学歴で選別するのは「合理的な区別」

差別か、合理的な区別か? 現代社会のあいまいな境界を、“バカ差別”という言葉を入口に再考する_img0
 

勉強って別に、微分積分そのものを学んだり、鎌倉幕府がいつできたかという具体的な情報そのものを得ることが目的ではありません。よく、「こんな計算式覚えたって生活じゃ使わない」「勉強は無駄」という声を聞きますが、それってめちゃくちゃ一面的な見方だと思うんです。例えば、シャトルランや懸垂を実生活ではしないけど、それによって鍛えた筋肉や体力は実生活で使います。それと同じで、勉強も、それを通して読解力や論理的思考など、汎用性のある普遍的な脳力を身につけているのです。

そして、無意識の間に、私たちは身につけた学力を行使しています。例えば、書類を読み解く力も学力ですし、仕事で色んなことを覚えて頭の中で整理するのも学力、相手の言っていることを理解するのも、言いたいことを伝える言語化能力も、すべて学力です。

 

これらの脳力は、肉体労働でも、社会のあらゆる仕事をする上で必要な普遍的で基礎的な力ですから、それを客観的に示せるものが学歴である以上、学歴で選別するのは差別ではなく合理的な区別といえるでしょう。

国を動かすような官僚や大手企業の社員が高学歴の人が多いのは当然の帰結であり、脳力が高い人が脳力の低い人を支配していることは悪いことではなく、むしろ脳力の高い人が脳力の低い人も含めたすべての人の暮らしのために仕組みを考えることは、全ての人にとって有益だといえるのではないでしょうか。脳力が高い人は、その脳力を自分のためだけでなく、社会全体のために使うべきなのです。

ただ、多様性があったほうが、組織力が高まるのは事実なので、様々な人の視点や意見を反映するために、国会議員にも、大企業の中にも、学歴がない人も必要でしょう。