——歌舞伎というホームから外に出ることで、表現力以外でも学べることが多そうですね。
僕らが歌舞伎以外の舞台や映画、ドラマに出演するときは、そこを主戦場とされている方の枠をひとついただいているということ。一方で、歌舞伎は毎月興行があって、お役をいただける。それがいかに恵まれていることなのか、身をもって学ぶことができる貴重な機会だと思っています。今回の僕の密かな目標は、明治座で『応天の門』をご覧になって、初めて僕のことを知った方々に、「あの人、歌舞伎役者だったの!? 意外だな」と思ってもらうこと。それぐらい周囲の俳優さんに溶け込むことができたら、一皮むけることができるのかな、と。
——世襲制度がメジャーな歌舞伎界の中で、一般家庭出身の莟玉さんは珍しい存在だと思います。どのように道を切り開いてきたのでしょうか?
僕の場合は本当に運とご縁に恵まれただけなんですよ。もともと実家の母が歌舞伎好きで、その影響で僕も幼い頃から歌舞伎に憧れを抱くようになりました。でも、両親からは「その家に生まれた人が受け継いでいくものだ」と聞かされていましたし、本当に歌舞伎役者になれるとは思っていませんでした。でも、ある日、僕が劇場のロビーでお芝居ごっこをしている姿を踊りの先生が見つけてくれて、「歌舞伎が好きならお稽古にいらっしゃい」と声をかけてくださって。そこからお稽古に通うようになったのが小学校1年生のときでした。
——自分から売り込んだわけではなく、偶然の出会いがきっかけだったんですね。
そうです。その後、踊りの先生が松竹の方を紹介してくださって、その方が今の養父である中村梅玉につないでくださいました。
——歌舞伎の世界に入ってからも、厳しい現実を目の当たりにする瞬間が何度もあったと思います。それでも諦めずに続けてこれた理由とは?
とにかく僕は歌舞伎が好きで、その気持ちが弱かったら早々に断念していたと思います。ただ、僕の歌舞伎に対する愛情が失われないような環境づくりをしてくれていたとも思います。よく「外から入って苦労したでしょ?」とか「いじめられなかった?」とか言われるのですが、僕としては、どちらかと言うと甘やかされて育った感覚なんです。例えば、デビューしたばかりの頃から付き人さんに舞台上で着る肌襦袢などのお洗濯を頼むことを許してもらえたりとか。細かいことですが、父はいろんな面で僕が歌舞伎に集中できるような配慮をしてくれていました。たくさんの人に可愛がっていただけたのも、父の人徳のおかげだと思っています。やっぱり今の養父と出会えたことが最大の幸運でしたね。
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