「演劇」を活用し、さまざまなコミュニケーションで教育活動を行ってきた劇作家で演出家の平田オリザさん。大学入試改革にも携わっている平田さんは、演劇を学ぶ初の国公立大として、2021年度に開校する予定の国際観光芸術専門職大学(仮称)の学長就任も決まっています。連載「22世紀を見る君たちへ」では、これまで平田さんが「教育」について考え、まとめたものをこれから約一年にわたってお届けします。
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現在の日本人の平均寿命は83歳。
ということは今年(2018年)生まれる子どもたちは、その天寿を全うすれば、みな、22世紀を見ることになる。
彼ら、彼女らは、まったく想像もできない未来を見る。まったく想像もできない世界を生きる。
私は、これから一年あまり、「教育」について書きつづっていく。
しかし、あらかじめ、まず最初に以下のことを記しておかなければならない。

教育のことは分からない。
なぜなら、未来は分からないから。

よく言われるように、私たち人類は未成熟な形で母の胎内から生まれ、脳の柔らかい期間を長くとって様々な学習を行うように進化を遂げた。それが、ヒトの成長の特徴である。そのためヒトの子育ては、他の動物よりも難しく、社会全体で子どもを育てていく必要性が生まれた。ここに広義の「教育」の起源がある。「教育」とは、人類を、他の生物と区別する大きな要素の一つである。

しかし一方、古代ギリシアなどの例外を除いては、「教育」が、社会全般に意識されるようになったのは、人類の長い歴史を一年に例えるなら、ほんの数日前のことに過ぎない。

フランスの歴史学者フィリップ・アリエスの名著『〈子供〉の誕生』によれば、ヨーロッパでは中世まで「子供」という概念はなかった。乳幼児死亡率が極端に高かった時代、そこを生き延びると人々は、7、8歳で徒弟修業に出され大人と同等に扱われた。アリエスはそれを「小さな大人」と呼んでいる。

 

この説をすべて鵜吞みにするかどうかは別として、おそらく「教育」「学校」あるいはそれと区別される「家族」という概念さえ、近代以前には、ごく限られた階級のみが意識できたものだったことは想像に難くない。もちろん、洋の東西によっても多少事情は異なるのだろうが、庶民の生活レベルでは、この点、大きな違いはなかったのではあるまいか。

宗教の違いなどを含め、国家や民族のそれぞれの歴史や事情はあるにせよ、そして、その細かな差異はこの連載の中で見ていくにしても、おおよそのところでは、どの国においても、産業社会が生まれ、あるいは国民国家の生成の過程で、「教育」の必要性が起こり「学校」が生まれた。

そう考えれば、狭義の「教育」「学校」の歴史は、たかだか数百年に過ぎない。そうであるなら、私たちは教育について考えるとき、もっと謙虚になるべきではないだろうか。

未来のことは分からない。

教育とは、未来を予想して、「子どもたちに生きるための能力を授ける」という行為である。たとえば、子どもが漁師になることが確実に分かっていれば、その子には、船の動かし方、釣り具や網の整備の仕方、天候の予測のための知識、万が一のときの泳ぎ方といったことを教えておけばよかった。しかし、いま私たちが直面しているのは、おおよそ以下のような問題である。

・その子が、どんな職業に就くかがまったく予想できない。
・親が子どもを漁師にしたいと考えても、そもそも22世紀に漁師という仕事があるかどうか分からない。
・漁師という仕事が生き残ったとしても、そこで必要とされる能力について予想がつかない。それは、漁業ロボットを操作する能力かもしれない。漁から販売までを一元化し、六次産業化していくコーディネート力かもしれない。あるいは、養殖の技術や遺伝子組み換えについての研究こそが、漁師の本分となるかもしれない。

未来が予測不可能なのに、いったい私たちは、子どもたちに何を教えればいいのだろう。

 
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