かつてこの豊岡、但馬の地に、東井義雄という教育者がいた。日本のペスタロッチとも呼ばれる東井先生は、昭和30年代に「村を捨てる学力、村を育てる学力」という概念を提唱した。このまま、いわゆる「学力」だけを伸ばしても優秀な子どもほど東京に出て行ってしまい、村は疲弊するばかりだ。もっと共同体を豊かにするような教育に、その教科内容を切り替えるべきではないか。高度経済成長のまっただ中で、このような主張が、当時、陸の孤島であった但馬の地から生まれたのは驚嘆に値する。
いま文科省が進める「グローバル教育」は、21世紀版の「村を捨てる学力」、いわば「国を捨てる学力」なのではないか。
それは、言い換えれば、教室の39人を犠牲にして、一人のユニクロシンガポール支店長を作るような教育だ。教育工学的に見ても効率が悪いし、そして獲得目標も低い。しかも残りの39人はグローバル化から取り残され、偏狭なナショナリスト予備軍になっていく。誰のための、何のためのグローバル教育なのか。
現行の教育改革の多くは、産業界からの要請によってなされている。あるいは振り回されている。
私は、文部科学省が行う改革のすべてが間違っているとは思っていない。だいいち、文科省も一枚岩ではない。ゆとりと言ってみたり、基礎学力と言ってみたり、その振り幅も相当に大きい。
もっとも問題なのは、現状、産業界の、教育のことなど何も分からない人々が、きわめて近視眼的な展望だけで、外から教育をゆがめている点だ。加計学園問題の本質も、私はそこにあると思っている。
企業自体が、株主の利益を最大化するために、単年度の決算成績のみを問題とするようになり、社会の公器としての側面をないがしろにしている。そんな短期利益の追求を旨とする企業の要請で、「即戦力」と呼ばれる人材を育成することに教育が汲々としていて、国家百年の計を守ることができるのか。
先に、未来のことは分からないと私は書いた。しかし、おぼろげながらでも予測のできることはある。いや、少なくとも、予測はできなくても予感を語ることはできる。
1970年、大阪万国博覧会の年、私は7歳だった。未来は、21世紀は、明るく輝いていた。
しかし、いま、22世紀を無邪気に明るく捉える風潮はない。もちろん、世の中には、それを明るく捉える人もいることは理解している。日本は神の国であるから必ず復活するのだ。いや、安倍政権下で、すでに日本は蘇ったのだと信じている人々が一定数いることも分かっている。それでも、その数は、1970年当時に比べて、きわめて少なくなっていることは事実だろう。
それは、日本がすでに成長を終えた成熟社会だからだろうか。中国や、アフリカの子どもたちは、22世紀に夢を抱いているだろうか。夢が描けるのだとしたら、それはどんな形の夢だろう。
そのようなことも含めて、私は「教育」について考えていきたいと思う。
過去に様々なところに書き記した教育関連の記事をまとめる形になるかもしれないが、その点はご容赦いただきたい。2020年度の大学入試改革などの教育の転換期を前に、私のこれまでの考えを、一つにまとめておきたいというのが、この連載の主旨である。(つづく)
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