ゴールである「自立」とは何か?


人として生まれた子どもが、受精した瞬間から社会の中で生き、自立するまでの過程全体が「発達」である。そう捉えると、発達障害のゴールは自立であることは疑いないだろう。では自立とはどのような形態か? 私は、次の3つを自立の目標としている。

1. 自分で生活できる。
2. 人に迷惑をかけない。
3. 人の役に立つ。

つまり、仕事を得て税金を払う人となり、さらに社会的なルールを守ることができていれば、自立という課題は達成できたことになる。

子どもは発達をしてゆく存在であり、当然、発達障害の子どもたちも日々発達してゆく。その過程で、凸凹や失調は、全体として改善してゆくのが普通である。子どもの頃に発達障害を持っていたとしても、生活をしてゆくうえで支障になるようなハンディキャップを持ち続けているとは限らない。むしろ改善が、大多数の場合には実現可能である。

 

発達障害の治療や教育の目的は、「さまざまなサポートや教育をおこない、健全な育ちを支えることによって、社会的な適応障害を防ぎ障害ではなくなる」というところにある。

よって、子どもを正常か異常かという二群分けをおこない、発達障害を持つ児童は異常と考えるのは完全な誤りである。発達障害とは、「個別の配慮を必要とするか否か」という判断において、個別の配慮をしたほうがより良い発達が期待できる、ということを意味したものである。

できれば私としては「発達障害」ではなく、「◯◯失調症」と言いたいところであるが、読者の混乱を招く恐れがあるため、ここでは心ならずも一般的な呼称である「障害」を用いることとする。
 


発達障害に対する偏見が解決を遅らせる


誰にも得手不得手はあり、そこには「個人差」がある。ではどこまでが「個人差」でどこからが「発達障害」なのか。その苦手さが生活の上で不具合を生じているのであるとすれば、発達障害として診断や治療または個別の教育(特別支援教育)の対象となるのである。

しかしながら学校の先生からしばしば聞くのは、クラスの中でサポートが必要な子どもに受診を勧めれば、「うちの子を障碍児にするのか!」と激怒する親が少なくない、という苦情である。

これは、親側の思い込みによる誤解に基づいていると言わざるを得ない。わざと怠けたり反抗したりしているのではなく、また親のしつけの不備によるものでもない —— つまり本人の責任ではないことによって学校生活に支障が起きていることが明らかとなり、この本人にとって不幸な状態を医療機関など専門家の助けを借りて解決しようという申し出を、発達障害という名前に由来する偏見から拒絶してしまおうとしているのである。親が怒ったところで、子どもの持つ問題が解決するわけではないのに……。

偏見は誤った知識から生まれる。さらにいえば、専門家のサイドにも実は誤診例が存在する。これまで発達障害は非常に限定的に捉えられていたため、比較的軽微なものに関しては、その存在に気づかれず青年期、成人期を迎えることも生じてきた。とくにアスペルガー症候群など、知的障害を伴わない軽度発達障害は、軽微とは言いがたい様々な適応上の問題を生じていても、その存在に気づかれず経過する場合がある。実際これまでの精神科臨床では、統合失調症をはじめとする様々な精神疾患において、実は発達障害の基盤を持っていることに気づかないまま診断がなされ、治療がおこなわれなかったことが多い。この問題は、今後大きな議論になる可能性があるだろう。
 

 

『発達障害の子どもたち』
杉山登志郎 著 講談社現代新書 ¥760(税別)


ADHD、アスペルガー、学習障害、自閉症などの発達障害。治る子と治らない子の違いはどこにあるのか? 長年に渡って子どもと向き合ってきた児童青年期精神医学の第一人者である杉山医師が、その偏見や誤解を解き、どのように治療やサポートを進めるべきか、やさしく説いた一冊。

文/山本奈緒子

 

・第2回「1%の子が当てはまる障害「アスペルガー」とは」はこちら>>
・第3回「10歳までが勝負。発達障害の子どもをどう育てるか」はこちら>>

 
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