「演劇」を活用し、さまざまなコミュニケーションで教育活動を行ってきた劇作家で演出家の平田オリザさん。大学入試改革にも携わっている平田さんは、演劇を学ぶ初の国公立大として、2021年度に開校する予定の国際観光芸術専門職大学(仮称)の学長就任も決まっています。連載「22世紀を見る君たちへ」では、これまで平田さんが「教育」について考え、まとめたものをこれから約一年にわたってお届けします。
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そもそも「会話」と「対話」は違う

他者への寛容を学ぶために。「対話的な学び」に必要なもの_img0
 

私はこれまで、拙著『わかりあえないことから』(講談社現代新書)を中心に、対話と会話、あるいは対話と対論をきちんと区別することが大事なのではないかと主張してきた。重複を恐れず、この点について、まず簡単にまとめておこう。

演説、対論、対話、会話、独り言など、人間が話す言葉には、様々なカテゴリーがある。その中でも特に、「対話」と「会話」を区別することが重要だ。
「対話」は「dialogue」、「会話」は「conversation」。英語ではこの二つの単語は大きく意味が異なるのだが、日本語ではこの区別が曖昧だ。というよりも、日本語では、「対話」という概念が薄い。だから辞書を引くと、「対話=向かい合って話し合うこと。また、その話」(大辞泉、小学館)などとなってしまう。ちなみに同じ辞書で「会話」を引いてみると、「複数の人が互いに話すこと。また、その話」となっていて違いがよくわからない。私なりの定義は以下の通りだ。

会話=親しい人同士のおしゃべり。
対話=異なる価値観や背景を持った人との価値観のすりあわせや情報の交換。あるいは知っている人同士でも価値観が異なるときに起こるやりとり。

では、「対論」と「対話」はどう違うのか。これを私は以下のように説明してきた。

対論は、AとBが議論をして、Aが勝ったとしたら、Bは意見を変えなければならないがAはそのまま。
対話の場合は、AとBが話し合って、Cという新しい結論を出す。どちらも変わることを前提にしてコミュニケーションをとるのが「対話」。

価値観を一つにする方向のコミュニケーションから、価値観は異なったままで、文化的な背景の違う者同士が、どのように合意形成を行っていくかが、ここでは問われている。


日本の子供たちが緊急に学ぶべきことは?


文科省が掲げる「対話的」とは、本来、このような方向で説明されるべきだと私は思う。
さらに、「主体的」と「対話的」は時に相反するという認識も必要だ。たしかに主体性がなければ対話は成立しないのだが、主体性が強すぎても対話は成り立たない。自分の主体性を少し曲げることも、対話の中では重要だ。

フランス革命の理念は「自由・平等・博愛」だ。しかし、「自由」と「平等」はなかなか両立しない。自由が行き過ぎれば平等は成立しないし、平等を追求しすぎると個々人の自由が束縛される。だが、ここがフランス人の面白いところで、この矛盾する概念の中間に、「博愛」という抽象的な理念を置いた。この発明は不思議な普遍性を持って、やがて世界へと伝播していく。

私は半ば冗談だが、「主体的・対話的で深い学び」よりも、「主体的・対話的で愛のある学び」の方がいいのではないかと主張してきた。もしもこれが情緒的にすぎると言うなら、「主体的・対話的で寛容な学び」と言い換えてもいい。異文化に対する寛容さこそが、日本の子供たちが緊急に学ばなければならない点だと私は考える。

 
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