社会的弱者のコンテクストを理解する


実はもう一点、『わかりあえないことから』には大きなテーマがあった。コミュニケーション不全の多くは、コンテクストのずれから起こる。ある子にとっては「遊び」でも、ある子にとっては「いじめ」と感じることはたくさんある。日頃から、このコンテクストのずれをすりあわせる訓練が大事であり、そのためには演劇的手法を使った教育はとても有効だ。

さらに大事なことは、大学などのリーダーシップ教育においては、「ロジカルシンキング」や「クリティカルシンキング」も大事だが、もう一点、社会的弱者のコンテクストを理解する能力も重要なのではないかという点だ。論理的に喋る・書く能力はもちろん必要だ。しかし、それと同じくらい、論理的に喋れない人たちの言葉に耳を傾ける能力も必要なのではないか。

 

『わかりあえないことから』で、私が書きたかったもっとも重要な部分はここにある。そして、『教科書が』という書物に、私が最初に抱いた違和感も、やはりこの点にあった。

先回も書いたように、そもそも私は、この『教科書が』の中に書かれた様々な設問の正答率について、新井先生が書いているような「危機的な状況」とは感じなかった。むしろ「まぁ、そんなもんだろう」と思った。この特殊な「設問」に答えられるのは、この手の問題に慣れている子供たちだけだ。

誤読と知性は関係ない


人間は、自然状態では、よく誤読する。それは読解力とはあまり関係がないし、まして知性とは関係がない。なぜ、私がこんなことを断言できるかというと、自分の戯曲を翻訳し海外の俳優たちに演じてもらう過程で、このような誤訳が切りがないほどに起こるからだ。私の戯曲を訳してくださるのは、英語、フランス語、韓国語いずれも超一流の翻訳者たちだ。それでも誤訳は頻繁に起こる。

どんなに知性のある人でも、一定の頻度で係り受けの関係などを間違える。これはもう、内田樹先生風に言うなら「そういうものなのだ」としか言いようがない。もちろん、そこに注意を集中すればミスは防げるが、それは知性とはあまり関係があるとは思えない。

いや、他にもっと大事なことがあるのではないか。
それはたぶん、どうすれば誤解を受けない文章を書けるかという能力や、誤読があることを前提にして、その事後処理を準備しておくという発想だ。

おそらく、『教科書が』に出てくる問題を繰り返しやらせれば、その正答率自体は上がる。それは、そういう問題に「慣れた」からに過ぎない。なにをもって「学力」とするのか自体が十人十色の状態だから議論は難しいが、もしかするとこの「慣れ」によって、ある種の学力テストの点数も上がるかもしれない。それは、短文を慎重に読んで、出題者の意図を理解する能力が高まるからだろう。そういった能力が、二一世紀を生きる子供たち、若者たちに必要だという議論も、かろうじて成り立つだろうとは思う。

しかし、私なら、やはり別の設問を立てたいと思う。
(つづく)
(ひらた・おりざ 劇作家)

前回記事「検証・子どもたちは本当に「教科書が読めない」のか」はこちら>>

 
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