日常の小さな幸せは感じられていても「私は幸せな人間だ」と胸を張って言うことはできない、そんな人が年々増えているのではないでしょうか。国連が発表している「世界幸福度ランキング」でも、日本は2018年は54位、2019年は58位と順位を下げ続けています。なぜ私たちは幸せを感じることができないのでしょう? アドラー心理学の第一人者として知られる岸見一郎先生の著書『幸福の哲学 アドラー×古代ギリシアの智恵』では、苦労している人が陥りやすい“ある心理”を指摘しています。

 


自分を不幸に見せたがる人たち

本当は幸福になりたいはずなのに、幸福になってはいけないと思う人がいる。個人の幸福を全体の幸福よりも優先してはいけない、また、正義や道徳を幸福に優先しなければならないと考える人がいる。さらには幸福になりたくない人もいる。なぜそのように思う人がいるのかを考えてみたい。

学校に行かなくなった子どもの親は、しばしば自分が不幸であると見せる。それは、自分が不幸であるのは、学校に行かなくなった子どものせいだと言いたいからだ。もちろん、こんなことを親が自覚しているわけではない。だが私は一生懸命子どもを育ててきたのに、この子のせいで不幸だと、無意識に世間の同情を引こうとしているのである。
 
老いた親の介護に日々心を砕いている人も多い。十分すぎるほど親に尽くしているのに、なおも十分親孝行ができていないと思う人は、知らずして、自分がいかに大変な思いをしているか、どれだけ頑張っているかをまわりに訴えようとしている場合がある。それは実のところ、介護を自分ほどはしていない他の家族への隠された非難でもある。

自己犠牲的な生き方を自らの意志で選んだ人を立派であると思うことは間違ってはいないが、私が危惧するのは、そのような生き方が強制されたり奨励されたりすることである。生命を犠牲にするのではなくても、誰かのために生きることが、それが親であってもまた子どもであっても、よきことであると見なされ、そうしない人に圧力がかけられるのであれば怖い。親が子どもに、また子どもが親に献身することはあってもいいが、それが道徳になってはならない。


幸福になりたがらない人たち


幸福になりたいとは思っていても、幸福になってはいけないと思う人がいる一方、幸福にはなりたくないように見える人もいる。
人生は生きるに値すると思えれば、人生に意味がないとは思わないだろう。とすれば、逆にいうと、人生には意味がないと考えるのは、実際に自分が置かれている状況が厳しいからというより、人生が自分の思う通りにならないから、自分は不幸であり、自分が生きる人生は不公平であると考えていることになるだろう。

子どもの頃に甘やかされて育ってきた人は、自分では何もしなくても、まわりの人が自分のために働いてくれることを当然だと思っているので、このように思いがちになるのである。しかし、まわりの人が自分のために働いてくれるというようなことは、甘やかされて育った子どもたちが生きてきた虚構の世界以外にはない。

こうして、自分が子どもの頃には知らなかった厳しい現実に直面し、自分の思うようにならないことを経験すると、この人生には意味がない、生きるに値しない、だから自分は不幸だというようなことを思う。だがこれにはわけがある。自分が自力で向き合うしかない人生の課題を、この人生が自分の思うようにならないことを理由に、回避しようとしているのだ。

失敗した時の再起の努力が必ずしも成功するとは限らないだろう。だから、再起の努力をしないで、逆に人生の方に自分の挫折の原因を求めようとするのである。


対人関係の中に入らない理由としての「不幸」


対人関係の中に入れば、何らかの摩擦が起きる。嫌われたり、裏切られたり、避けられたり、憎まれたりして、満身創痍になる。親の庇護のもとで生きていた頃には思いもよらなかったことである。

アドラーは「あらゆる悩みは対人関係の悩みだ」と言い切っている。またプラトンが「どの生きものにとっても、生まれてくるということは、初めからつらいことなのだ」と言っていることも、対人関係で苦しんだ人であれば共感するだろう。
たしかに対人関係の中に入っていかなければ誰からも傷つけられることはない。しかし他方、幸福や生きる喜びも、対人関係の中でしか得ることはできない。誰とも関わらなければ悩みはないが、その代わり喜びもない。

対人関係に入らないためには理由が必要である。失恋したことがあって、その時のことがトラウマになって人を愛することが怖くなった、というようなことを言う人がいる。子どもの頃、親から受けた教育を理由にする人もいる。

あげられる理由は様々だが、何も理由がなければ、対人関係の中に入ろうとしないことをまわりは許してくれないし、何よりも自分が納得できない。子どもが朝学校に行きたくない時に、お腹が痛くなったり、頭が痛くなったりするのと同じである。

対人関係の中に入らなければ、いよいよ不幸になるだろうが、人から傷つけられることを恐れる人は、不幸であることを嘆いているように見えて、実は、不幸であること、少なくとも幸福ではないことを自ら選んでいるのである。対人関係に入って傷つくというリスクを犯したくないのである。

 
  • 1
  • 2