84年からキャリアをスタートし、『anan』や『装苑』『GLOW』など第一線で活躍したモデル・女優の雅子さん。Jホラーの金字塔『リング』(98年)では貞子の母・志津子を演じ、微笑みながら黒髪を梳くシーンで鮮烈な印象を残した。
しかし雅子さんは症例がないほど珍しい“がん”を患い、2015年1月、50歳の人生に幕を閉じる。

(この記事は2019年6月25日に掲載されたものです)

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撮影:中川真人

そのとき夫の大岡大介さんは、“モデル・雅子”のキャリアをまったく知らない自分に気付き、雅子さんの友人や遺された誌面・映像から“仕事人・雅子”の姿を追いかけ始める。
その集大成が、7月26日から公開となる映画『モデル 雅子 を追う旅』だ。
撮影や編集をイチから学び、あらゆる工程を自己資金でまかなうなど、制作の全てを自らの手で行った大岡さんに、劇中では語られなかった雅子さんとの出会いから知られざる闘病生活、そして最期の瞬間までを聞いた。

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大岡大介監督 1971年生まれ。本業はTBSの番組プロデューサーで、かつて同社で『ハンニバル』(01年)や『バイオハザード』(02年)の買い付け、『木更津キャッツアイ 日本シリーズ』(03年)、『アフタースクール』(08年)といった邦画製作に携わっていた。
 


“日焼け”をめぐってケンカ


「ファッションやモデル業界のことはさっぱりだったので、初めて会ったときも彼女が“モデルの雅子”だということは知りませんでした。
ひょんなことからフランス映画祭で彼女をエスコートすることになったのをきっかけにデートするようになったのですが、その夜、ドレス姿の彼女を見ながら、『きれいな人だなあ』『20代くらいかなあ』とかって一人でブツブツ言ってたら、『なに言ってんの、雅子さんはアンタの7つ上よ』と知人に教えてもらい、さらに驚きました」


『モデル 雅子 を追う旅』には、雅子さんを撮影してきたカメラマンやメイクアップアーティスト、編集者などが登場するが、誰もが口を揃えて証言していたのが、その肌の美しさとプロ意識の高さだ。

「彼女の中では30年間続けてきたことだからだと思いますが、スキンケアやスタイル維持といったことは歯磨きと同レベルで習慣化していたようです。だからストイックに努力しているような雰囲気はなかったですね。
でも最初に戸惑ったのは、日焼けへの徹底した配慮です。付き合った当初、オープンカーに買い替えたばかりだった僕は、屋根をフルオープンにして意気揚々と彼女を迎えに行ったんです。すると雅子は車に乗るなり嫌そうな顔で一言、『屋根、閉めて』とピシャリ。それからは助手席からも陽が入ってこないようにサンシェードをつけましたが、そうすると運転する僕はサイドミラーが見えにくい。よくそれで小競り合いになりました(笑)」

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「撮影時は雅子さん専用と言っても過言ではない、普段はほとんど登場しない明るさのファンデーションを使っていた」とは、メイクアップアーティスト・吉川陽子さんの証言。シワもできにくい、まさにモデル向きの肌だった。 撮影:高橋ヒデキ


プロポーズの返事は「早く言いなさい、バカ」


「出会って半年で結婚したので、いわゆるスピード婚です。お互いバツイチ同士でしたが、恋愛関係になっても駆け引きみたいなものはなくて、とにかく居心地がよかった。僕の方はまだこのままでいいかなと思っていたとき、雅子が急に『なんか私に言うことあるでしょ』と言ってきたんです。とっさに意図を理解して、『結婚してください』と言いました。彼女の返事は、『早く言いなさい、バカ』でしたね(笑)」


「人類が向き合った中で最悪のがん」の宣告


2006年9月に雅子さんと再婚。平穏な結婚生活を送っていた最中、雅子さんの体に異変が出始める。

「2013年の5月頃から咳が止まらなくって通院や入院もしたんですけど、なかなか良くならないし、原因もはっきりとわからなくて。
そんな中、立てなくなるほど症状が悪化したことから大きな病院に行って検査したところ、心臓のすぐ近くにある血管、肺動脈に血栓ができていることがわかったんです」

結果的にその血栓が悪性腫瘍だと判明したのは、年の暮れに行った24時間に及ぶ大手術によってだった。そこで雅子さんは腫瘍とともに右肺も摘出する。
後に受けたセカンドオピニオンでは、著名ながん専門医たちが「人類が向き合った中で最悪のがん」「狡猾な悪魔がいるとしか思えない」と驚愕の声を上げるほど、タチの悪いものだった。

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24時間に及ぶ大手術を経て退院した後、屋上で雪遊びをしたときの一コマ。互いに「死」という言葉を口に出したことも、考えたこともなかった。

「腫瘍が悪性だった場合、右肺を摘出する可能性があることは術前に説明を受けていました。ビビる僕とは裏腹に、横にいる本人を見たらいたって冷静で、『いいです、さっさとやっちゃってください』と。
結局、麻酔から目覚めたら片肺がなくなっていた上にがんを宣告されたわけですけど、雅子自身は今、この瞬間の痛みや辛さを乗り越えることに精一杯で、落ち込む暇もなかったように見えました。
術後は痰が溜まりやすくなりました。でも肺が片方しかないので、それを押し出すだけの力がない。かといって吸引してしまえば肺機能が弱くなる一方なので、自分でなんとかするしかない。毎日がそういった症状との戦いでした」

 
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