3.「中身がない」
これもSNSや掲示板などでよく見かける表現ですが、1.の「ふわふわしている」と同じく、この表現自体に中身がありません。もし内容が不十分、あるいは無意味な内容ばかり列挙されているということであれば、具体的にどのような内容を記載すべきなのか指摘すればよいでしょう。また無意味であると指摘する場合には、「自分だったら、このように説明する」と具体的な文例を挙げれば、話はハッキリします。

しかしながら、これをやってしまうと、自分の表現能力や説明能力が白日の下にさらされてしまいますから、大きなリスクを伴います。中には純朴なのか、よほど自分に自信があるのか、不適切な具体例を示して批判している人も目にしますが、本人が気付いていないだけで完全に自殺行為でしょう。結局のところ「中身がない」という言い回しは、自分の説明や表現に自信がないことの裏返しですから、最初から負けが確定しているのです。

突っ込み所満載、中身がない…批判と誹謗中傷の境界線をよくある「言い回し」から考える_img0
 

4.「コイツは信用できない」
日本人にはよく見られる傾向なのですが、相手が述べていることに対する批判と、自分の好き嫌いについて、意識的あるいは無意識的に混同する人が少なくありません。これがひどくなると、相手の主張する内容ではなく「コイツはバカ」「知能が低い」「低学歴」といった誹謗中傷につながってしまいます。もし相手が主張している内容に虚偽がある場合には、それを指摘すれば済む話ですから、そもそも主張に対する批判として、人格を持ち出すこと自体が間違っています。

 

5.「テストなら0点(小学校からやり直せ)」
この言い回しも、2.や3.と同じく、具体性を欠いた情緒的表現であるという点で批判になっていません。そもそも学校のテストにたとえてしまう段階で、学校での体験や学歴に対する複雑な感情が見え隠れしますが、とりあえずその話は置いておきましょう。学校のテストにたとえるのなら、具体的な採点項目が存在しているはずですし、採点項目がハッキリしているであれば、そもそもテストの話を持ち出すまでもなく、個別に指摘すればよいだけの話です。相手を全否定したいという感情がコントロールできず、「0点」という相手を貶める言葉につながったものと考えられます。

一連の表現に共通しているのは、相手が主張している中身を批判するのではなく、相手の人格や能力を全否定し、自分が優位に立ちたい(あるいは相手を貶めたい)というネガティブな欲求です。こうしたネガティブな欲求から脱却できない限り、建設的な批判や討論は実現しません。

このコラムの趣旨は、特定の言い回しを避けようというテクニカルなものでしたが、よく考えて見ると、その背後にはマインドという大きな要因があることが分かります。まずはテクニックで対応するというのは現実的な方法かもしれませんが、本当の意味で問題を解決するには、自分や他人に対する基本的な価値観を転換しなければなりません。

前回記事「「被災地の中学生が撤去作業」の報道に批判。日本人は“配慮”を求め過ぎていないか」はこちら>>

 
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