韓国や中国で、今も高い人気を誇る伝説的作品『Love Letter』。後をたたないリメイクのオファーを歓迎しながらも、「今の時代、手紙で物語を作るなんて不可能では?」と考えていたという岩井俊二監督。そんな中で作品化された新作『チィファの手紙』を、監督は「『Love Letter』のリニューアル的作品」と語ります。『Love Letter』から25年の時を経て、「手紙」が想起させるものはどう変わったのかーーそんなところから始まったインタビューは、その間に変わった世界のこと、映画のこと、人々の考え方のことへ。発想から行動から自由で縦横無尽、岩井俊二監督の映画界における独特の存在が垣間見えます。
デジタル化で消える「モノ」、それとともに人間が失う情緒
ーー25年ぶりに「手紙」をモチーフにした作品を作った岩井俊二監督。手紙に個人的な思い入れやこだわりがあるのかと思いきや、そういうわけでもなさそうな。ただ手紙があることで生まれる「画」の美しさは、デジタル化が進む今、改めて実感したようです。
岩井俊二監督(以下、岩井):手紙を書く姿、読む姿、というのは昔からフェルメールなんかも描いていますが、すごく情感が出るんですよね。スマホではそうはならない。こういう佇まいや仕草がいずれ失われていくんだとするともったいない気がするような。
ただこれは手紙のみならずで、ここ20年ぐらい電子端末の進歩、特にスマホの登場で、今までその外側にあった「モノ」が、人間の仕草とともになくなっているんですよね。端的なところで言えば「家の電話」で、「最初に親が出て、子供が受話器を受け取る」みたいなやりとりがなくなっていますし、不案内な土地で「地図を広げる」ということもなくなっている。「腕時計」を見る仕草も、若い世代にはだんだん伝わらなくなりつつあるでしょうし。
でも何もかもがスマホに帰着し始めると、それだけでは「何をやっているか」は伝わらないんです。特にスマホで何がやれるか詳しく知らない世代には、スマホいじってたら、次のシーンで玄関から食べ物が届く、とか、何が起きてるかわからない。そうなるとスマホの中を撮る必要が出てくる。スマホ画面の地図やメッセージの映像が、映画の画面をどんどん侵食しているのはそういう事情があって、つねにこうした時代の変化との戦いがあります。
ーー『チィファの手紙』は、主人公チィファと30年ぶりに再会した初恋の相手イン・チャンとの間で、ひょんなことで始まった文通から幕を開けます。そのイン・チャンからの手紙がこれまたひょんな事からチィファの姉チィナンの娘ムームーへ渡り、それぞれの過去ーー中学時代のチィファからイン・チャン、イン・チャンから姉チィナンへの初恋、そして映画冒頭で明かされるチィナンの死の背後にあったことーーから引きずる思いが、紐解かれてゆきます。映画を見て思うのは、手紙を書くためにかけられる手続きーー書くか書くまいか、出そうか出すまいかという逡巡も含めてーーの複雑さと、その過程で深化してゆく感情です。映画の醍醐味はそこにあります。
岩井:一昔二昔前だと、人間が生活を営む上で様々な手間がかかったけれど、便利になればそれがなくなる。蛇口をひねれば水もお湯も出るなら、井戸から水を汲む必要はないわけで。スタジオジブリの宮崎駿さんや高畑勲さんは、そういう牧歌的な生活ーー『アルプスの少女ハイジ』で藁を積んだベッドとかに、愛惜を込めてアニメーションを作ってこられたわけです。でも今はそれがない、身体の筋肉と細胞で感じる五感の部分がどうしても少なくなってくるっていう時に、人間のどの機能が失われていくのかっていうのはちょっと考えると空恐ろしいと言うか。
ただだから映画が作りにくくなるかと言えば、そうでもないんです。19世紀末の作家H・G・ウェルズの小説『タイムマシン』が描く遠い未来の人類の姿を想像してもらうといいかもしれません。未来の人類のブルジョワ階級は、何もしなくても生活に困らないから知性が衰え、明るい地上で牧歌的な暮らしをしている。一方、類人猿のようになった労働者階級は地下の工場地帯で働き、夜中に這い出してブルジョワを連れ去るんです、自分たちのエサとして。映画は時代の鏡だから、どんな時代でも描かれるものはある。人間が知性も情緒も失ったナメクジみたいな生物になり、地球が砂漠になってしまっても、カメラさえあれば映画は作れるかなっていう。
演者やスタッフが密にならない「安全な」撮影環境は作れるのか
ーーこの作品の話題は、日中の2カ国をまたいだプロジェクトであること。最初は2018年に出版された小説で、そこから発展し中国版としてローカライズして作られたのが『チィファの手紙』で、日本版は『ラストレター』として今年の1月に公開されています。岩井監督はアジアでの人気も高く、本作品も続編の企画があるそうですが、このコロナ禍で一旦ストップせざるを得なくなったといいます。
岩井:今回のコロナ禍では世界中がほぼ同じ環境で、再開の目処が立ちにくいですね。中国は日本よりもアグレッシブなんですが、それでも撮影途中に現場から感染者が出たら撮影が止まり、作品自体もほぼ中止。それが見えているから、出資も集まらない状況が続いています。それでも自分がまだ幸運なのは、その他にモノを作れる環境を持っていること。例えばアニメーションとか。一般的には全員がスタジオに集まってやるんですが、僕らは『花とアリス殺人事件』ぐらいから全部テレワークで作ってるんで。そもそもは「地方や離島にいる描き手にもチャンスがあるほうがいいよな」と思って始めたんですが、日本中の絵描きさんに仕事を振りデータで戻してもらうスタイルなので、コロナ禍の状況でも全く問題ないんです。まあこうした状況を想定していたわけではなく「たまたま」ですが、あまり自分を制限せずに、やりたいことはやるという生き様なんで、結果として手札が多いのかも知れません。
ーーそういう中で岩井さんらしい自由な発想で考えるのは、今後の撮影現場のあり方です。
岩井:実際の撮影、特にスタジオ撮影では、50人から100人の人がいます。これをどうバラバラにして、役者さんや背後のスタッフが密にならないようにするか。監督もテレワーク化して離れたところからやるみたいなやり方を計画しないと。いろんなところからガイドラインが出ていますがーー正直、根拠はないですよね(笑)。スタッフを含め現場にいる人全員に、3日に一回ペースでPCR検査をやるなどすれば、だいぶ違うとは思いますが。もちろんそれでも出る可能性はあるでしょうが、確率としては大分減るはずです。
例えばアメリカではもともと、撮影に参加する人は全員が健康診断を受けるのが基本です。監督でも病気があれば交代させられることがあるし、スキンシップのある俳優は血液検査から口唇ヘルペスまでチェックしてサインする。今ならそこにコロナウィルスの抗体検査や PCR 検査を追加すればいい。日本の映画業界もそういう仕組みを作ればいい。それさえあれば成立するなら、やっていくしかないと思います。検査なしで再開と言われても「どうなんだろう」と。一般的な経済活動だってそうです。町で市街戦やってるけど、個々で弾に当たらないよう気をつけながら、でも外出はしてね、っていうような話ですから。なかなかちゃんとは動きようがないですよね。
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