大事なものは「過去の幸せ」でなく、今と未来
「もう大柴先生に話は伝えてあるから。頼りになる女性の弁護士さんよ」
「朋子ちゃん、本当にありがとう。忙しい中ごめんね」
丸ビルの高層階にあるイタリアンの窓際席で、美穂は森本朋子に小さく頭を下げた。彼女はもともと早希の友人で、2人きりで会うほどの仲ではない。
けれど今日は美穂から朋子に連絡を取り、彼女の勤める総合商社の近くでランチをすることになった。
過去に離婚経験のある彼女に話を聞きたく、思い切って「夫のDVで家を出たから相談に乗って欲しい」と打ち明けると、朋子はすぐに弁護士に相談すべきと驚くほどの早さで段取りを整えてくれたのだ。
「それに素敵なお店まで予約してくれて……。こんな景色眺めるの久しぶりでドキドキしちゃう」
スーツに身を包んだ朋子を前にすると少し緊張する。ショートカットの髪に薄化粧の彼女に派手さはないが、小物やコートは上質で、何より堂々とした立ち振る舞いが美穂の目には頼もしく映った。
「うん。その気持ちが大事だから」
「……え?」
「いつもと少し違う場所で、テンションを上げるの。服でも食事でもエステでも何でもいい。今は気分の良くなることをたくさんしたらいいよ」
すると朋子は小さく息を吐き、表情を崩した。
「私もそうだったから分かるんだけどさ……いくら旦那と離れる決意をしても、心が揺れたり寂しくなることあるでしょ?散々嫌な思いしたのに、わざわざ楽しかった思い出に浸って恋しくなったりさ」
一瞬、心の中を覗かれたかと思った。
まさに朋子の言う通り、ここ数日、美穂は貴之との幸せな記憶を掘り返してばかりいる。結婚前のデートやプロポーズの思い出。出産直後に新生児の湊人を抱き、感動に目を潤ませていた彼の表情。
夫婦の歯車が狂ったのは確かだが、“本物の幸せ”が存在したのも事実なのだ。
また、今も貴之からの連絡は止まない。両親がなんとか追い返したが、実家にもやってきた。美穂と湊人は部屋に隠れていたけれど、彼は土下座までして謝罪したらしい。
あとから貴之が手土産に置いていったウエストのシュークリームを見たときは、思わず湊人の前で泣いてしまった。それは美穂の一番のお気に入りスイーツだったのだ。
「でも過去の幸せになんか囚われないで。大切なのは今と未来だから。旦那とどうするかは弁護士とじっくり話して決めたらいい。それで面倒なことは全部弁護士に任せるの。美穂はとにかく前を見て、少しずつでも進んで。そのためにも、今の自分をたっぷり楽しませるんだよ」
クールで口数もさほど多くない朋子から、こんな言葉を聞くのは意外だった。
彼女は元夫の浮気が原因で離婚したとは昔から聞いていたが、いつも気丈に振る舞っていて、弱さなど微塵も感じなかったのだ。
すると朋子はまたしても美穂の心情を察したように悪戯っぽく笑う。
「……私がこんなこと言うと気持ち悪い?でも経験者しか分からないこともあるでしょ。今度は最低男たちの悪口大会でもしようよ。丸の内ランチならいつでも出られるから」
「本当に、本当にありがとう……」
今はどうしても、欠けたものばかりに心が向いてしまう。
けれど朋子の言う通り、とにかく前へ進むしかない。
そうすれば、その分はもっと良い形で埋められる。いや、自分の力で埋めなければならないと、美穂は涙を堪えながら強く誓った。
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