優しい男から逃げたくなる理由
「……はぁ」
虎ノ門の弁護士事務所を出てカフェに入ると、美穂はつい大きな溜息を吐いた。
朋子に紹介された大柴先生は、彼女の言う通り気さくで頼りになる女性だった。けれどこの先、やることは山のようにあるのだと分かった。その現実を直視すると、どうしても気が重くなる。
「美穂ちゃん!ごめん、待った?」
顔を上げると長谷川透の姿があった。瞬間、自分の顔が少し熱を持つのが分かる。
「弁護士さんの話、どうだった?」
彼は大学時代の先輩で、数ヶ月前に早希たちの集まりで偶然の再開を果たしたが、昔から面倒見の良い人柄で、家出後は毎日のようにLINEをくれた。
また自身も離婚経験があるためか美穂の話を親身に聞いてくれ、女友達には言えない弱音を吐いてしまうこともあった。
そして今日は、たまたま仕事で近くにいた透と少しお茶をしようという話になったのだ。
彼と対面するのは久しぶりだが、透は相変わらず独特な温和な空気を醸し出していて、弁護士面談での緊張がするすると抜けていく。
「正直、まだ整理がつかないんですけど……やっぱり離婚を目指そうと思います」
思い切ってそう口にすると、声が震えてしまった。
貴之に暴力を振るわれた時から、「離婚」の二文字はずっと頭の中にあった。しかし親も含め、離婚の意思をはっきり宣言するのはこれが始めてだ。この言葉を口にすると、現実に押し潰されてしまいそうだったのだ。
「そっか。息子さんの様子はどう?」
「実家でおじいちゃんおばあちゃんと過ごすのは楽しいようで、今のところ問題ないです。新しい学校にも初日から元気に登校しました。でも、きっと私に気を遣ってるんだと思います。表面的には明るい子だけど、根が繊細なのは分かってるから……」
美穂はつい言葉に詰まる。
数日前に湊人の転校手続きを終えたばかりだが、慣れた環境や友達と引き離してしまうのは本当に辛かった。
「俺は子どもがいないから軽々しいことは言えないけど……でも男ってさ、やっぱり母親が大好きだから。美穂ちゃんと一緒にいられるのが一番だと思うよ」
「ありがとうございます……」
「それにしても、ずっと連絡が取れなかったから心配したよ。焦って絵梨香にまで聞いたりしてさ」
「ご、ごめんなさい!夫のことで色々と混乱してて……」
慌てて弁解しようとして、ハッとした。
そのとき透は、あまりに温かい表情で美穂を見つめていたのだ。
「いや、いいんだ。本当によかったよ。まさか美穂ちゃんみたいな女の子を殴る男がいるなんてマジで信じられないけど……大事にならなくて本当によかった」
透に連絡ができなかったのは、実は夫が原因だけではない。
前回偶然2人きりで話したときから、彼にはあまり近づいてはいけないような気がしていた。
そして今、溜息交じりに微笑む透の姿を見て、自分の勘は正しかったと実感した。彼は、長い間忘れていたおかしな感情を美穂に思い起こさせるのだ。
「今度からは、何かあったら絶対に教えて。俺が力になるから」
先日早希に同じ言葉をかけてもらったけれど、意味が少し違うように感じた。
身体の奥に甘い感覚が広がるのと同時に、なぜだか恐怖にも近い感情に襲われる。彼のまっすぐな優しさが痛い。
美穂は透に笑顔を返すことができず、今すぐこの場から逃げ出してしまいたいような衝動に駆られた。
NEXT:1月30日更新
離婚に向けて動き出した美穂。しかし今度は早希がトラブルに巻き込まれる……
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