コロナ禍は私たちの日常を大きく変えてしまいましたが、多くの子どもたちにとって学校に通えなくなったことが一番の変化であり衝撃だったのではないでしょうか。それは学校側もまたしかりで、未曽有の事態に直面した結果、根底でくすぶっていた多くの問題が浮かび上がってきました。さまざまな教育現場に携わり、「21世紀型教育」の研究を続けてきた石川一郎さんは、著書『学校の大問題 これからの「教育リスク」を考える』の中で、日本の教育現場が抱える問題の本質を指摘しつつ、これからの学校において、コロナ禍のような「未知の状況」に対応できる人間を育てるためにどのような教育をすべきかを示唆しています。

ではいったい学校教育のどこが問題なのでしょう? それは意外にも私たちが「常識」と思いこんでいる部分かもしれません。今回は問題点を指摘した箇所を中心に抜粋してご紹介します。

 

2020年新型コロナウイルスの感染拡大は、人々がそれまでは当たり前だと思っていた「日常」を大きく転換せざるを得ない事態を引き起こしました。

教育現場においては、学校に生徒が来て授業が行われるという日常が失われ、生徒が目の前に存在しなくても教育活動を行わなくてはいけない、という前代未聞の事態に直面したのです。

 


学校教育の本質的な問題とは


コロナ禍の学校に主役である生徒がいないという状況は、学校という存在自体をゼロベースで考える契機となったと思います。授業を考えてみれば、40人学級、対面、チョーク&トーク、といった常識が当たり前でなくなったのです。

卒業式や入学式といった大きな行事、放課後の部活動、遠足や修学旅行といった行事、生徒たちのコミュニティ、といった学校の思い出として、真っ先に思い浮かぶものもすべてがなくなりました。

学校とはどんな場か、教育において、本当のところ何が必要なのか、コロナ禍によって学校教育の本質が問われたと痛感しました。ここで、コロナ禍の学校における問題を本質的に掘り下げてみます。

【学校の問題1】意思決定の弱さ

 

本来は、学校で物事を決める軸は、「生徒にとって最適で」「教職員がそれを無理なく実現できる」という両輪で成り立っています。しかし現状では、建前はそうであっても本音は異なっているのではないかと思います。

では、本音は何か? ここには、「責任回避」の発想があるのではないでしょうか。かつて自分が教師になった昭和時代は、学校が決めたことには保護者は従うもの、という不文律があったと感じていましたが、近年では、学校が決めたことであっても保護者から様々な声が寄せられます。学校もある意味当たり前の組織になりました。

ここで言いたいのは、昔は良かった論ではありません。かつての学校の決定には、
①生徒にとって最適なものを検討し決めたもの
②目的ははっきりしないが「学校が」管理しやすいという理由で決めたもの
という2通りがあったと思います。後者の場合、目的ははっきりしないものの、「学校が」決めたというのがやっかいです。この「学校が」という言い方は、この業界ならではの言葉なのですが、「責任が誰にあるのかわからないが、然るべき機関で決めている」という意味です。

これがいわゆる学校の前例主義として今日まで残っているもので、決定に様々な声が寄せられても、「前からそうだった」と逃げ切れるカードなのです。前例のない事態、まさに未知なる状況への対応なのですから、試行錯誤しながら最適解をみつけていけばいいと思いますが、学校マインド的には、どうしても「前例」や「横並び」から脱せないのが現状です。

異論が寄せられても、生徒にとって最適という決定をすることに、「もし~だったらどうする」という声が予想されると、どうしても何かあった時の苦情を考えがちです。「試行錯誤」の場合の「錯誤」の時に何か言われて、下手すれば炎上してしまうことを過度に恐れている面も少なからずあるのですが、「試行錯誤でいいから、やってみよう」とする職場でありたいと思います。