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渡辺ミキ社長が語る芸能マネジメントの面白み「二人三脚の紐が解ける時が一番つらい」

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タレントの青木さやかさんが「誰しも45歳で一度オワコンになる」をテーマに、人生を変えてくれた恩人と対談するこの企画もいよいよ3回目。対談のお相手は、青木さんが所属するワタナベエンターテインメント社長の渡辺ミキさん。三谷幸喜さんにも「青木さんの恩人といったら、社長でしょ」と言われるほど、青木さんの長い芸能活動の伴走者を務めてきたのが渡辺社長でした。

そんな、青木さんにとって心の師ともいえる渡辺社長が歩んできた人生は、まさに波乱万丈、針のむしろ、孤立無援という言葉が並ぶ壮絶なもの。そして、現在もいばらの道を突き進む渡辺社長の生き方に、青木さんは“45歳オワコン”を打破するための大きな励ましを得たようです。

 


“自動的”に経営者になったお嬢様
誰にも必要とされない日々から得たもの


青木さやかさん(以下、青木):社長がタレントの気持ちをわかろうとして下さるのは、社長が女優だったから、ということも大きいのかなと思っていて。お父様の渡辺晋社長が亡くなられて、経営の世界に入るために女優を辞めざるを得なかったわけですよね? その時はどんな心境だったんですか?

渡辺ミキ社長(以下、渡辺):実は“女優を辞めざるを得なかった”というのは、ちょっと違うんです。私は昔から、演劇とミュージカルが狂おしいほど好きで、早稲田大学の劇研(演劇研究会)に入って女優はしていたけれど、プロになろうとか、一流になれるなんてまったく考えていなかったんです。

青木:そうだったんですね。女優は辞めたくなかったけれど、不可抗力で裏側に入られたのだと思っていました。

渡辺:女優としてプロになるつもりはなかったけれど、“じゃあどこだったら居られるだろう?”ということは考えていました。好きだから居させてください、じゃダメなんです。好きすぎるがゆえに、役立つ人間になりたい、そうじゃないと生きている意味がない、そう考えてしまう真面目さもあって。だから、劇団を作って2回ほど芝居を打ったり、盛大に失敗したり、試行錯誤でした。作家や演出家という道もあったのかもしれないけれど、小さい頃から超一流の人たちに囲まれて育ちましたから、自分は作家として演者として大した才能じゃないということには早々に気づいてしまったんです。“わからないからこそ飛び込める幸せ”がなかったのね。

青木:それでも、この業界を離れるということは考えないくらい、中途半端な“好き”という気持ちじゃなかったわけですね。

渡辺:そうね。でも当時は、父の会社に入ろうとか、ましてや経営に携わりたいなんて考えは毛頭ありませんでした。この会社は父と母が作ったもので、素晴らしい社員の方たちもたくさんいましたから。血を分けた娘とはいえ、素人がポッと入ってくるような場所ではないと思っていました。でも、父が亡くなったことで、相続対策の必要が出てきたんです。それで、税理士さんと弁護士さんからのお話をお受けして、父の会社の全ての役員に“自動的”になったというのが経緯ですね。

【写真】笑いの絶えない
渡辺社長×青木さんの対談風景

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