東京五輪・パラリンピック大会組織委員会の森喜朗前会長による女性蔑視発言に続き、開閉会式の演出を統括する佐々木宏氏が提案した侮辱的な企画が大きな批判を集めました。次々と問題が出てきて、本当にうんざりしますが、一方で今回の出来事からは、日本のエンタメ業界が大きく変化する兆しも感じ取ることができます。
佐々木氏が提案した企画内容が週刊誌で報じられたことで、本人は責任を取って役職を辞任しました。佐々木氏の決断は責任者として当然のことですが、謝罪もロクにできない人が多いという日本社会の現状を考えると、差別的な言動があったとはいえ、相応に評価すべきだと筆者は考えます。しかしながら、一連の経緯に対する周辺の反応は微妙なものでした。
この企画内容は正当化しようがないものですから、正面から佐々木氏の行為を肯定することは不可能です。しかし、「本人は芸人さんなのだからそれほど気にしていないはず」「1年も前の企画が蒸し返されるのは何か意図を感じる」「渡辺さんは大人の対応をするだろう」「体型がタブー視されて仕事が減ったら渡辺さんがかわいそう」といった形で、問題を矮小化したり、論点をすり替え、何とか佐々木氏の行為を肯定しようとする雰囲気が蔓延していたように思います。
当初、渡辺さんは「実際、私自身はこの体型で幸せ」というコメントを出しただけでしたが、3月19日になって自身のYouTubeチャンネルの動画で「その演出プランが採用されて、私の所にきた場合は、私は絶対断ってますし、その演出を私は批判すると思う。目の前でちゃんと言うと思う」「だってよーく考えてみて。芸人だったらやるでしょ、違うって。」と発言。周囲の「期待」を一蹴しました。
差別やセクハラなどが発覚した際、当事者ではない人たちから「本人はそれほど傷ついていないはず」「言葉狩りをしているだけ」といった発言が相次ぎ、被害者に対して、受け入れるよう圧力がかかるというのは日本社会では日常的な光景でした。
今回も同じ状況になったわけですが、渡辺さんはまったく動じずに自身の意見を述べたことで、完全に予定調和を崩した格好です。
差別問題というのは、周囲がどう感じるかではなく、差別を受けた本人がどう感じるのかがもっとも大事なポイントであり、この視点を抜きに差別問題を議論することはできません。日本社会はこの視点を決定的に欠いており、これが問題解決の大きな障壁となっていることが改めて浮き彫りになったといってよいでしょう。
差別問題が起こるたびに、社会が息苦しくなるといった批判が出てくるのもいつものパターンですが、筆者はこれについても的外れな意見だと思っています。
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