皆さんは、「オッカムの剃刀」の話を聞いたことがあるでしょうか。今からもう700年も前のはるか昔の話ですが、哲学者オッカムが「何かを説明するために、必要以上に多くの仮定を用いるべきではない」とする指針を出して、それを多用したそうです。

剃刀というのは必要以上の仮定を削ぎ落とすことの例えだったようです。これは現代の医療の世界でも度々引用されている言葉です。一人の患者さんに複数の症状を見たときに、それぞれの症状に別々の病気を考えるよりもまず、複数の症状を同時に引き起こす一つの病気の可能性を考えましょう、という教えとしてよく引用されるのです。

私はまさに、この患者さんの診察を終えた瞬間、オッカムの剃刀のことを思い出していました。もしかして全ての症状は繋がっているのかもしれない。

原因は甲状腺ホルモンの減少にあった


そこで、甲状腺機能低下症という病気の可能性がないかと考えました。甲状腺機能低下症は、読んで字のごとく甲状腺から作られるホルモンの産生量が減ってしまい、甲状腺ホルモンの機能が低下してしまう病気です。

甲状腺は首にある臓器で、普段は全身のエネルギーや代謝を促進するような、蒸気機関車の燃料を燃やす火室のような働きをしているところです。ここの機能が低下してしまうと、蒸気機関車が加速できなくなるように、全身の代謝の過程が遅くなっていってしまいます。

このため、疲れやすさを感じたり、物忘れの症状が出たりすることがあります。また、心臓のポンプの働きが弱まることで、足にむくみが出ることもあります。

このようなことを考えて早速、甲状腺ホルモンの血液検査を提出してみると、見事なまでに甲状腺ホルモンの値が下がっていることがわかりました。

そこで、甲状腺ホルモンの治療を開始しました。患者さんは少しずつ状態が回復し、薬の投与量を調整しながら数カ月が経過した頃にお会いすると、患者さんから「もうお手伝いさんが要らなくなりました」という声を聞くことができました。

 

本当に医師をやっていてよかった、丁寧に話を聞いて診断を導くことができてよかったと日頃の苦労が報われた瞬間でした。とても嬉しい気持ちになったのを覚えています。

 

この方の物忘れや抑うつ症状は、最終的にアルツハイマー病でもなければ、うつ病でもありませんでした。甲状腺機能低下症という病気があって、それが原因の「認知症」だったのです。