サブカル誌云々という説明にも違和感があります。虐待の自慢話を最初に掲載したのは有力な音楽雑誌のひとつであり、この雑誌を、いわゆるサブカル誌として括ってしまうのは少々無理があるでしょう(当然ですが、版元の会社は2社とも謝罪の声明を出しています)。小山田氏あるいは編集者が、話をより大きくするため内容を膨らませた可能性は否定できませんが、行為そのものは事実でしょうし、それを嬉々として、2度も公の場で自慢しているという図式そのものは否定のしようがありません。

東京五輪・パラリンピック組織委員会の武藤敏郎事務総長は7月20日の会見で、演出チームの人選はチーム側に一任していたと説明。「最終的な任命責任がわれわれにあることは間違いないが、われわれが1人1人を選んだわけではない」と釈明した(写真は17日撮影)。写真:新華社/アフロ


なぜ一部の人が「当時の価値観と今の価値観は違う」というあからさまなウソをつくのか筆者にはまったく理解できません。何らかの利害関係が存在するのか、そうでなければ、当時の小山田氏と似たような価値観を持っている人なのかもしれません。

 

近年、ネットの発達で過去の話が蒸し返されるケースが増えており、こうした風潮が行き過ぎると様々な問題が出てくるのは事実だと思います。しかしながら、民主主義社会には根源的な善悪というものが存在しており、法律の条文以前の問題として、やって良いことと悪いことがあります。

例えば不倫というのは、一部の人にはショッキングなことかもしれませんが、基本的には当事者間の問題であり、絶対的な善悪として第三者が裁くことは困難です。不倫の問題について何年も当事者を社会的に責め立てるのはどうかと思います。

しかし障害者に対する虐待となると、これは基本的人権という社会の根幹に関わる問題であり、1ミリも弁解の余地はありません。これは、立件されていない、法律上時効になっている、時間が経過しているといったテクニカルな問題ではなく、それよりもはるかに上位に位置する概念ですから、社会的に一定の責任が生じるのは当然のことだと思います。

日本社会は法律の条文にさえ抵触しなければ何をやってもよいという雰囲気があり、それが一連の行為を助長している面があることは否定できません(ちなみに民主国家においては、条文にさえ抵触しなければ何をしてもよいという価値観は否定されています)。

筆者の専門分野は経済やビジネスですが、日本の企業社会においても不正行為が平然と放置されるケースがたくさんあります。諸外国では、発覚すれば(立件の有無とは無関係に)トップが辞任するようなレベルの事案であっても、日本では責任を問われないどころか、責任を追及する側の人が逆に批判されることも少なくありません。

今回は辞任という形で、とりあえずひとつのけじめをつけることができましたが、小山田氏が今後も一生涯、社会からバッシングされ続けるというのもおかしな話だと思います。法律では裁かれなかった行為を社会としてどう決着を付けていくのか。まさに日本社会の民度が問われていると思います。
 


前回記事「【熱海市土石流】災害大国、なのに気象変動リスクに備えてこなかった日本の課題とは」はこちら>>

 
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